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金大生のための読書案内 ― 教員から学生へ


金大生のための読書案内 ― 教員から学生へ

 

平成24年7月2日~平成25年1月27日中央図書館で展示されました

死を包む言葉

榊原千秋先生(医薬保健研究域-保健学系)

 21歳で母親を亡くしてから、自分でも無意識のうちに死に近い人々のそばに居ることを選択してきたように思います。33歳で交通事故に遭い瀕死の状況の中、臨死体験をしました。右手の中指からすーっと一筋の煙のように魂が抜けていき、救急車の中で横たわる自分を見下ろしていました。付き添いの医師が手を握りしめてくれなかったらきっと今の自分は存在しません。その後、幾度も病を繰り返し、何度も死を意識する体験を繰り返しました。その度に、この世の中にもう自分という存在は必要とされていない、おおいなるものからあなたはもういいわと言われているように感じました。このことは、心や身体の深いところに刻まれ、いつ死んでもいいという死への肯定が強くなるなど、その後の人生に大きな影響を与えました。このような体験から、1人称の死のリハーサルの体験後の方々を対象にしたグリーフワークが必要と感じています。
 母親は脳腫瘍でがんとわかった時には、全身に転移していました。たった1年の闘病でした。折しも保健師として町役場に就職した年でした。放射線治療、抗がん剤、モルヒネの副作用・・・。最期のときのことです。医師は母親の上に馬乗りとなり心臓マッサージをはじめました。そして看護職の娘にアンビューバックを渡したのです。20代後半の女性医師は、もういい?と目で語りました。実は、この情景は記憶の深いところに長い間閉じ込められていました。20年後、40歳を迎えた秋のことでした。作家の柳田邦男さんから筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病患者さんとのかかわりについて話を聞きたいとお電話がありました。その電話口で、母親の最期の呼吸を止めたのが娘である自分であったことを語っている自分に気がつきました。
 21歳のあの日から、わたしの本棚には死や病いの語句が並びます。「死を包む言葉」との出会いが心の支えでした。本を読み、人と出会い、語り合ってきた30年は、わたしにとって、「死を抱きしめてきた日々」だったように思います。40歳を迎えた春に大学院生となり、縁あって金沢大学の看護学教員となりました。自分や愛する人が病気になったとき、病いの経験が書かれた本を読むことは、大きな力になるのではないか、また学生たちにとっても患者さんや家族を理解する際の大きな学びになるものと、柳田邦男さんが推奨されている闘病記ライブラリーコーナーを保健学類の図書館につくっていただきました。また、病いや障がいを経験された方々に語り手になっていただき学生たちにお話を聞かせていただくことは、聞き手の学生たちだけでなく語り手にもいい体験になるという確信から、患者さんと家族の声を学生たちといっしょに聞き書きサークル「星ことば」を立ち上げ、聞き書き講座を定期的に開催しています。学生たちは、やわらかな発想で、患者さんも家族も医療保健福祉従事者も誰もがひとりの人として出会い語り合える場をつくりたいと、「ココチカフェ」という居場所づくりを行っています。人に寄り添えた手応えを感じる貴重な機会です。学生たちのはればれとした笑顔を見るたびに死を抱きしめてきた日々も無駄ではなかったなと思えます。

1.死の中の笑み / 徳永進著, ゆみる出版, 1982 (図開架 498.04:T646)

 1948年生まれだから、今年64歳になる。立花隆氏は、自らのがんを告知したドキュメンタリーでの最後の場面で、野の花診療所をたずねて「大切なのは死ぬまでちゃんと生きることだと気がついた」と最後を締めくくった。
 1981年(昭和56年)当時、鳥取赤十字病院の勤務医だった徳永医師は、この本で講談社ノンフィクション賞を受賞されている。暮らしあう場にある終末医療を長年追求され続けてきた医師であるが、彼の30代前半に臨床で出会った患者さんと医師としてどのように向き合い、思い悩んだのかということが丁寧に描かれている。徳永医師の言葉をかりると、「医療スタッフは多くのがん患者さんに接してきたから、がん患者さんのAさんとして日常のことを処理していく。しかしAさんは、生まれて初めてがんを病み、そのことに直面している。患者さんはすべて、この“初めて”ということを医療スタッフに共有することを希望している。決められた正しい答えはなく医療スタッフのしたことが正しかったかどうかは、患者さんの表情、家族の表情、そして医療スタッフの実感の中にあらわれてくる。医療現場に日常的に広がっている『悲しみ』『苦しみ』、そして『死』、その中に『笑み』を見ることができるかどうかということが、答えのない現場で働くわれわれにとって、ただひとつ、問われ続けているように思うと述べている。」徳永医師の魅力は、ひとりの医師がひとりの人として向き合ってときにみえる臨床という現場の本物の表情、動作、声の形容詞にある。臨床のなかの形容詞から学ばせていただいたのは、情景のもつ力である。臨床の場に立ち向かう時、心の中にいくつもの情景を持ち歩けば重たい教科書はいらない。10年前に野の花診療所を開設された。徳永医師の日常は、死の中に笑みを求めた日からぶれることなく30年が過ぎ、まだまだ続いていく。野の花診療所の日常を綴った物語は読みやすくおすすめだが、医療従事者である前に人としてどうあるべきかを考えさせてくれるハンセン氏病の方の聞き書き「隔離」、これからの生と死をベースにした地域づくりへの提言ともいえる「死の文化を豊かに」も是非読んでほしい。

2.犠牲(サクリファイス): わが息子・脳死の11日 / 柳田邦男著, 文藝春秋社 , 1995 (図開架 916:Y21)

 本書は、柳田氏の次男、洋二郎さんが、自ら命を絶ち意識が戻らないまま脳死状態となり腎提供に至るまでの十一日間を静かに克明に綴られた手記である。生前、洋二郎さんは、精神病の主人公アレクサンデルが人類を核戦争から救うために自分の家に火を放ち神への捧げものとし自らは精神病院に収容される難解な映画、旧ソ連の亡命映画作家であるタルコフスキーの映画「サクリファイス」について、自己出版した本の中で言及し「ただ一つ重要なことは、私たちの平凡な日々が、アレクサンデルがあがなったような『犠牲』によって支えられている、と意識することだろう」と語る。洋二郎さんの心こそ漆黒の河を渡るような精神生活だったのだろう。「誰の役にも立てず、誰からも必要とされない存在」となっている悩み、骨髄ドナーになる登録をされていたという。ドナー登録は、「ぼく自らが志すべき信念」と彼が位置づけた密かな「自己犠牲」の行為だった。父親である柳田氏の次の一文が心に迫る。
 洋二郎の腎提供は、純粋に洋二郎の人生と思想の延長線上で、その総括として決めたことなのだ、、、大事なことは、洋二郎が真に納得できる生を全うできるかどうかだ。明日からは、彼が願っていた「自己犠牲」を成就させるために、最善の対策をしてやろう。
 洋二郎の心蘇生から脳死、そして心停止に至った十一日間を見つめて、強 く実感したのは、死とはだんだんと訪れてくるもの、あるいは人はだんだんに死んでいくもの、ということだった。
 本書のカバーを開くとびっしりと洋二郎さんの日記で埋め尽くされていた。洋二郎さんがいかに生きたかったかが胸に迫る。

3.火花 : 北条民雄の生涯 / 高山文彦 [著], 角川書店 , 2003, (図開架 910.268:H719)

 北条民雄は、19歳で発病し差別と病魔との闘いのなか、強烈な個性と自我に苦悩しながら23歳で夭折した。著者の高山氏は、北条の生涯を、故郷と思われる土地を調査し、北条の作品や日記、川端氏との往復書簡や友人との手紙、友人たちの残した書物や証言などを丁寧に辿りながら北条民雄の人としての核心、文学の核心に迫っていく。北条が夭折し70年を経てもなお、高山氏は、彼の本名や出身地を公表していない。ハンセン氏病はそういう病気である。北条は、東京の全生病院で絶望的な入院生活を送る中、文学という細い光を頼りに川端康成に手紙を書く。当時は手紙ですら忌み嫌らわれる時代だった。作品「いのちの初夜」を発表したのは昭和11年。北条と川端は、90通の手紙を交わしている。川端の誠実な深い愛情にも深い衝撃を受けた。 
 著者の高山氏は、宮崎の高千穂生まれ。高千穂を舞台とした「鬼降る森」、終末期の父親との葛藤を描いた「父を葬る」もおすすめ。

4.サイレント・ガーデン : 滞院報告・キャロティンの祭典 / 武満徹著, 新潮社 , 1999 (図開架 762.1:T136)

 「時間は生命の木の葉、そして私はその園丁だ。時間は緩っくりと、落ちていく」オーストラリアの一少女の一片の訳詩を遺して武満徹氏は旅立った。
 1996年2月20日享年65歳。この本は、武満氏が最期の入院中に毎日書いていたレシピ・ブックと日記からなる。武満氏は、若い頃にかなり重い結核を患い、64歳で膀胱がん、皮膚筋症という膠原病、間質性肺炎を患い、膠原病を抱えながら抗がん剤投与を行うという困難な治療を受けていた。キャロディンの祭典は、口内炎に苦しんだ終末の病床で、昔食べたものや空想の献立をイラストをそえたレシピのかたちで描いた一冊のスケッチブック。その料理をいつ食するかまで書かれている。克明に記された体重の数値が胸に迫る滞院報告。この本は、娘さんの真樹さんの嫁入り道具になる予定だったのだそう。家で作曲をしている時も、朝食が終わると、“さあ、昼めしまでがんばるゾ”、“よし夕飯まであと3小節…”、武満氏一家は食べるという行為で結ばれていたという。2月18日、死の前々日の東京は雪だった。武満氏は、降りしきる雪を窓越しに眺めながらベッドに横になったままFM放送で偶然にバッハの「マタイ受難曲」を聴いた。その報告を聞いた妻の浅香さんは、それまで病いと必死に闘ってきた武満氏の意識の底のどこかで自分の病状の深刻さを自覚し、もう自然のままに、安らかに大いなるものの手に生命を委ね、決して諦めとか絶望ということではなく、思いも及ばぬ深い安息を与えられ、それが静かに旅立って行くための道しるべとなったのではないかと語っている。最後になった夜、浅香さんは、きちんと椅子に坐った武満氏と「おかゆが美味しく炊けているんだよ」、「じゃ、また明日ね」と云って手を振ってわかれた。

 谷川俊太郎氏の本書に寄せた一文を紹介する。
初めて会ったときも、最後に会ったときも武満は病院のベッドの上だったが、彼の内なる「健康」は、身体の病によっても損なわれることはなかった。それがこの日記を明るく豊かなものにしている。立ち去った後も、武満はわたしたちとともにいると感じさせてくれる。「明日の朝はもうこれを書くまい。/晴れてくれればいいが。」と日記は結ばれているが、この二行は彼の音楽のコーダのように美しく響く。彼はまたこうも書き残してくれているのだ。「[希望]は持ちこたえていくことで実体を無限に確実なものにし、終わりはない。」武満の生のレシピに、「希望」と「歓び」の深い味わいを欠かすことは出来ない。

5.人間の絆(上・中・下) / モーム作, 岩波書店 , 2001 (図開架 I933:M449:1-3)

 サマセット・モーム(1874—1965)は、1919年に小説「月と六ペンス」を出版しベストセラーとなった。駐仏イギリス大使館の顧問弁護士をしていた父の5子としてパリの裕福な家庭に生まれたが、8歳の時に母が肺結核で亡くなり、その2年後に父も亡くなる。その後、父の弟夫婦に引き取られるも、母との死別、外国語訛りの英語と吃音、環境の激変により孤立した少年となった。
 モーム文学の最大の特徴は、彼の人間観にあるという。
「人間は矛盾に満ちていて首尾一貫した人間などいない。まったく相容れない諸性質が同一人物の中に存在し、それでいて、もっともらしい調和を生んでいる」「人間には何の意味もなく、『ペルシャ絨毯』織匠が自己の審美感の満足のために模様を織るのと同じように。人は自分の好みによって人生模様を織っていけばよい」というもので、人間は、不可解性、複雑きわまる矛盾の塊であることを表現している。引き込まれるため、上・中・下を用意し一気に読むことをお勧めする。


6.家郷の訓 / 宮本常一著, 岩波書店 , 1984 (図開架 I382.177:M685)

 1939年(昭和14年)以来、1907—81年までの73年の生涯に、日本各地をくまなく、地球を4周する16万キロも歩き、戦前から高度成長期まで、各地をフィールドワークし続け1200件以上の民家に泊まった。このことが「旅する巨人」と呼ばれる所以である。宮本氏は、まず目的の村へいくと、その村を一通りまわって、どういう村であるかを見る。つぎに役場へいって倉庫の中をさがして明治以来の資料を調べる。つぎにそれをもとにして役場の人たちから疑問の点を確かめる。同様に森林組合や農協をたずねていって調べる。その間に古文書のあることがわかれば、旧家をたずねて必要なものを書き写す。一方何戸かの農家を選定して個別調査をする。たいてい1軒に半日かける。さらに村の古老に自由に語ってもらい、主婦、若い者の仲間に合う機会をつくって多人数の座談会形式で話をきく。宮本氏の関心は、村の今日の文化を築き上げて来た生産者のエネルギーというものが、どういう人間関係や環境のなかから生まれ出てきたかということだった。一躍有名になった「忘れられた日本人」(岩波書店、1960年)について宮本氏は、無名にひとしい人たちへの紙碑といっている。宮本氏の自伝的文章は、「民俗学への道」(岩波書店、1955年)に納められた「あるいて来た道」、「民俗学の旅」(文藝春秋、1978年)があるので是非読み進めて欲しい。宮本氏のまなざしの原点は、山口県大島の祖父や父との暮らしにあるといえる。本書は、宮本氏が故郷や家族のことを語った自伝的民俗学で、父親が息子常一に書き留めさせた文章が美しい。
一、汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺か、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
二、村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見下ろすようなことがあったら、お宮も森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。
・・・
六、私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。
・・・
十、人の見残したものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

 宮本氏は、今につながる人間の幸福についてコミュニティのありようを次のように示唆している。「本来、幸福とは単に産を成し名を成すことではなかった。祖先の祭祀をあつくし、祖先の意志を帯(たい)し、村民一同が同様の生活と感情に生きて、孤独を感じないことである。われわれの周囲には生活と感情を一にする多くの仲間がいるということの自覚は、その者をして何よりも心安からしめたのである」まさに、今にも通じる言葉である。


7.苦海浄土 : わが水俣病 新装版 / 石牟礼道子[著], 講談社 , 1972 (図開架 916:I79)

 石牟礼さんは、熊本県天草に生まれ、水俣で育った。この本が出版された1969年当時、石牟礼氏は、水俣に住む貧しい家の主婦だった。1968年に石牟礼氏は、もって生まれての義務感からか背中を押され水俣病問題を推進する自発リーダーとして、水俣病対策市民会議を結成することとなる。石牟礼氏を社会的活動家として知る人は多く、本書も第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。
 4−5年前のことである。ある番組で、今日の石牟礼さんと出会い衝撃を受けた。パーキンソンを患われていた。オルハン・パムクというデンマークのノーベル賞作家との対談を軸に、季節折々の京都の無と紅を織りなしながら綴られた美しい番組だった。石牟礼さんは、「現代は言葉を失う時代です。水俣の人々は、言葉でなく声で伝えました。わたしはその声を還したいのです。」と、ポリフォニックにいろいろな声が聞こえる中、言葉の前にあるものに価値を見いだすことの意味を語った。石牟礼さんは、現在84歳。半世紀に渡って、水俣病を文明の病として、水俣で暮らす者の視点から自分にとっての水俣を描き、今もその本質を問い続けている。その生き方は、近代日本が捨て去ってきた人と自然が共に生きていた豊かな世界へのエピローグのごとくである。
「苦海浄土」は、石牟礼さんが水俣病患者になりかわり自在に憑依して書かれたものである。「椿の海の記」(1976年)という2歳から5歳までの幼児体験を復元したような自伝的小説も興味深いので是非。

8.街角の精神医療 : 最終章 / 浜田晋著, 医学書院 , 2006 (図開架 493.7:H198)

 本書は、「私の精神分裂病論」(医学書院、2001)、「街かどの精神医療」(医学書院、1983)の続編として書かれた。浜田先生は、松沢病院時代、精神分裂病という一枚岩に「遊び療法」の技法で立ち向かい敗れた。1970年(昭和45年)からたった一人で巨大都市東京の「地域活動」に挑みぼろぼろになった。そして1973年(昭和48年)。東大闘争を経て、精神科診療所を建てるしかないと浜田クリニックをはじめる。本書は、30年間、上野の地でそこを拠点として行われた地域医療のまとめである。浜田先生が、上野の地でつきあってきた1人ひとりの「分裂病者と呼ばれている人たちの生と死の記録」が中核となっている。
本書は、「存在の人」という石川さくらさん(31歳、ペンネーム)の患者からみた浜田先生で総括されている。
 袖口に紐が通してあって、それをひっぱって袖口をすぼめる“衛生処理班”という感じの白衣を着て、モンブランの万年筆で、インクを吸わせてカルテを書く。さらに分厚い老眼鏡をかけていて、診察室に入ると、その分厚いメガネの奥から「よお」という。
 1992年、地域医療の貢献者に送られる第1回若月賞を受賞した授賞式のこと、徳永進先生と二人で、すすむ&すすむフォーラムの企画を思いつかれる。盛岡でひらかれたフォーラムから毎回参加。全国各地に出かけた。2001年9月の第12回で終了していたフォーラムが2010年に神戸で再開され、その年の12月20日に亡くなられた。研究室の机前には、クリニックの診察室に腰掛けほほえむ浜田先生の写真を飾らせていただいている。顔をあげると「元気か?」と声かけてくれる。時々「そう〜、いいねえ〜」と笑顔で励ましてくれる。

9.寛容 : 多田富雄詩集 / 多田富雄著, 藤原書店 , 2011 (図開架 911.56:T121)

 2001年5月に旅先の金沢で脳梗塞の発作に襲われた。車いすで嚥下障害を抱えた。リハビリ闘争の中心として、部品の病気と関係の病気について教えられた。多田氏の日常を追ったNHK・ETVスペシャルの印象は今も大きい。寡黙なる巨人の素顔は、柔和で穏やかなほほ笑みの人だった。生命科学者の鶴見和子さんとの往復書簡「邂逅」(藤原書店、2003)、遺伝学者の柳澤桂子さんとの往復書簡「露の身ながら」(集英社、2004)にも多田氏の闘病の日々から紡ぎ出された言葉の意味は重い。
  本詩集は、倒れて後の全ての詩を集成されたもので、冒頭に、「今はこんな 
 状態でとっさに答えができません。しかし僕は、絶望はしておりません。長
 い闇の向こうに、何か希望が見えます。そこに寛容の世界が広がっている。
 予言です。」と。多田先生の心の中に広がった希望の光は、免疫機能の社会学
 的適用としての「寛容」という言葉だった。多田さんの世界観をひもとくに
 は、「寡黙なる巨人」(2007年、集英社、小林秀雄賞・受賞)、「免疫の意味
 論」からよみすすめるのがいいかもしれない。「寛容」は、心の深みに届き手応えとして感じ、生涯を支えるテーマとなる。2010年4月12日の新聞記事で前立腺がんでお亡くなりになられたことを知った。お会いしたい方だった。

10.「出会う」ということ / 竹内敏晴著, 藤原書店 , 2009 (図開架 914.6:T136)

 竹内氏を知る人は、「からだとことばのレッスン」を主宰し、演出家として舞台の構成・演出をつとめ、特技は人の姿勢を息づかいまで真似することで、著書は真面目な本ばかりだが、レッスンにおいては、喜劇役者にならなかったのが不思議なくらいオモシロオカシイおじさんで、別名"声の産婆"と呼ばれ、恐ろしい集中力をもって、その人の「本当の声=楽にたっぷり豊かに出る声」」を引き出す人と語る。竹内氏がどれだけ人間味あふれる魅力的な方だったかと微笑んでしまう。彼は、ことばを話すことは、歩いたり、食べたり、息をしたりするのと同じように自然なことで、ある人々にとっては、ことばを話すことが人間が長いことかかって習得した技術であるということは実感できないでしょうと語りかける。1978年、初めての著書『ことばが劈かれるとき』(筑摩書房、1978年)は、幼いときからの難聴と声とことばの障害と演劇の訓練、その中ではじめてメルロポンティの現象学に導かれての、主体としての「からだ」についての目覚めについて、「からだとは意識(精神)に指揮使役される肉体ということではない。からだとは世界内存在としての自己そのもの、一個の人間全体であり、意識とはからだ全体の一部の謂にすぎない。からだとは行動する主体であり、同時に働きかけられる客体である両義的な存在である。心とか精神とか肉体と分けて考える二元論は批判され、超えられねばならぬ。」と語っている。また、「十六歳で右耳の聴力を獲得しても、何を語ればよいのかわからなかった。手探りで、ことばを見つける。それを声にして語り出す。だが、声にするには、まず息を吐かなければならない。」この相手に届く息を吐くという主体的行為こそが、人が人と出会い、じかに触れあい、コミュニケーションすることと教えられた。人は出会うために生まれてきたのではないだろうか。2009年に亡くなられた。大好物だったそうな牛タンと麦飯定食をごいっしょしたかった。


11.魂にメスはいらない : ユング心理学講義 / 河合隼雄, 谷川俊太郎著, 朝日出版社 , 1979 (図開架 146.1:K22)

 瀕死の入院の病棟の待ち合いには、患者から送られた本を並べたコーナーがあった。その本棚にあった「こころの処方箋」(新潮文庫、1998)。この本に「なぜ・・・」と叫ぶ閉ざされた心を開いてもらった気がする。つまずいてもいい、病んでもいいとベッドに横たわる自分のすべてをしょうがないといってもらった。河合氏は、スイスのユング研究所で日本人初のユング派分析家の資格を取得し日本におけるユング分析心理学の第一人者。一方、谷川俊太郎氏は、60年以上にわたって日本語に向き合ってきた日本を代表する現代詩人である。
 河合氏が臨床でクライアントと向き合ってきた様々な事実、ユングがひもといた人間心理の深みを、絶妙な聞き手を得て、独自のまなざしで見つめながらの軽妙で包み込むような語り口とユーモアで心がほぐされていく。

 普通は社会に対してものを言う場合、いわゆる社会的な情勢とか調査とかをもとにするでしょう。ところがぼくは一人の個人を取り上げるところから者を言うわけです。これは考えたら危険きわまりないことですが、ぼくとしてはそれだからかえって通用し得るんじゃないかという気がしているんです。

谷川俊太郎氏の詩が絶妙。
宿題
目をつぶっていると
神様が見えた

うす目をあいたら
神様は見えなくなった

はっきりと目をあいて
神様は見えるか見えないか
それが宿題

生に向き合い、夢を分析し、死を問いなおすお二人の言葉のなかに、これまで気づかなかったあるがままの「自分」が見えてくる。

 

 

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