山本博教授(Kennst du das Land 君よ知るやかの国)

平成22年1月4日~3月30日 中央図書館で展示されました

 Kennst du das Land 君よ知るやかの国
    ―10冊の「世界との窓」―

山本博 教授(医薬保健学域医学類)

  

 私は海外に出るのが遅いほうでした。1998年,日米英三国間共同研究の代表者としてイギリスのパートナーをreturn visitしたのが最初です。ですから,学生の皆さんのような年頃から比較的最近に至るまで,異国や世界への関心と想像は,未知なるがゆえに,限りなくつよまったり,果てなくかけ廻ったりしたものでした。研究者は,海外に出なかったことを言いわけやハンディキャップにするわけには参りませんから,英語での読み書きや,国際会議,海外研究者との交流,留学生受入れはかなり真剣に行ったと思います。一方,外に出ていない分,自分が住む日本という国とその文明文化が,世界の側からは一体どのように見えているのかも心にかかったことでした。これらの要素は,自己形成に,仕事や生活のし方に,そして読書に,否応なく影響してきたように思います。以下に挙げるのは,このような一医学徒にとって,世界との窓のような役割を果たしてくれたと思われる書物の例です。後輩の皆さんが本を選ぶときや,ものを考えるときの参考になれば幸いです。

1.即興詩人 / アンデルセン [著] ; 森鴎外 [訳] , 筑摩書房, 1995.12 (図開架 918.68:M854:10)

タイトルに掲げたKennst du das Landは,ゲーテ「ウィルヘルム マイステル」で少女ミニヨンがうたう歌の出だしである。Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn, Im dunkeln Laub die Goldorangen glühn 君よ知るやかの国を,レモン花咲き,こがねなすオレンジ暗き葉かげにみのり(関 泰祐訳)とつづく。歌詞をたどって行くと,das Landは,北欧の人々のあこがれの地,陽光とルネサンスの美に輝くイタリアを指すことがわかる。本書「即興詩人」は,デンマークの作家アンデルセンによるイタリア紀行小説を,ドイツ留学から帰った鴎外が,軍医職の合間を縫い「大抵夜間,もしくは大祭日日曜日にして家に在り客に接せざる際に」9年余をかけて完訳したものである。読者が旅するのは,イタリアの風光と詩人の人生だけではない。「和漢の素養[と]欧文の教養[が]息づいた」(日夏耿之介)約40万語彙におよぶ雅文体世界が,燦然と行く手にひろがる。

2. 銃・病原菌・鉄 : 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎 上・下 / ジャレド・ダイアモンド著 ; 倉骨彰訳, 草思社, 2000.10 (図開架 204:D537)
【原書】Guns, germs, and steel : the fates of human societies / Jared Diamond, W.W. Norton, c2005 (図開架 204:D537)

 インカ帝国はなぜ滅びたのか?中国はなぜヨーロッパにリードを奪われたのか?なぜ,シマウマは家畜化されず,アフリカは遅れたのか?人類を含む生物と社会が辿ってきた運命についてのさまざまな謎が,現代を代表する知性ジャレドダイアモンドによって,医学,地理学,生態学,進化生物学,考古学,社会学,言語学などの学識を基盤に,学際的に解き明かされる。本書で展開されるパースペクティブの壮大さと深遠さは,ダーウィン「種の起原」に比肩されよう。

3.文明崩壊 : 滅亡と存続の命運を分けるもの 上・下 / ジャレド・ダイアモンド著 ; 楡井浩一訳, 草思社, 2005.12 (図開架 204:D537)
【原書】Collapse : how societies choose to fail or succeed / Jared Diamond, Penguin, 2006 (図開架 204:D537)

 選んだ10冊中2冊までを結果的にダイアモンド作が占めるところとなったが,本書は一推しの地球環境論。17世紀ポリネシアにおけるイースター島社会の崩壊,徳川時代の日本における森林保護の成功など,過去の実例を緻密に検証しつつ,現代から将来に亘る地球人に,危機意識溢れる警鐘を打ち鳴らし,また,炯眼に富む持続可能社会づくりへの提言を行っている。2008(平成20)年度金沢大学医薬保健学域医学類後期日程入試の小論文問題Ⅰは,本書から出題された。

4.Molecular biology of the islets of Langerhans / edited by Hiroshi Okamoto, Cambridge University Press, 1990 (図開架 493.12:M718)

 Islets of Langerhansランゲルハンス島とは,膵臓に点在してインスリンなどのホルモンをつくる組織で,障害されると糖尿病が発症する。本書は,これらのホルモン遺伝子の構造・はたらきと,関係する病態を,分子生物学の視点から集大成した英文単行本である。Editorは,恩師岡本宏 東北大学監事・名誉教授(昭和39年金沢大学医学部卒業,日本学士院賞受賞者)。私も一つの章の執筆と全体校正を担当した。日本人によるCambridge University Pressからの単行本出版は,国立遺伝学研究所木村 資生(もとお)博士(1983年)についで史上二番目。2008年には本書のペーパーバック版も出版された。

5.山川健次郎伝 : 白虎隊士から帝大総長へ / 星亮一著, 平凡社, 2003.10 (図開架 913.6:H825)

 戊辰戦争に敗れ,本州北東の斗南(となみ)藩へと移った旧会津藩は,将来への希望を一人の少年に託した。山川 健次郎 白虎隊幼少組隊士が,そうである。「死んで来いッ」と15才で書生に送り出され,18才で渡米した健次郎は,イェール大学で物理学を修め,帰朝後日本人として初の東京帝国大学物理学教授・理学博士,やがて東京帝大総長となる。田中館愛橘(たなかだて あいきつ)や長岡 半太郎を育て日本の物理学会を領導するとともに,九州帝大初代総長,京都帝大総長,明治専門学校総裁,武蔵高校長を兼任,わが国の高等教育の礎を築いた。本書は,命をかけて勉強するとはどういうことか,教育は後世に何を残しうるかを教える。

6.遥かなるケンブリッジ : 一数学者のイギリス / 藤原正彦著, 新潮社, 1991.10 (図開架 302.33:F961)

 後年「国家の品格」を著すことになる数学者藤原 正彦 氏の作品。前著「若き数学者のアメリカ」では,執筆活動を開始して間もなかったせいか,あるいはアメリカという自己主張のつよい国に留学したせいか,ややぎこちなく生意気な部分もあったが,本書は肩がとれ,ジェントルマンシップやユーモアの精神など,ケンブリッジの知的風土を淡々と余すところなく伝える。

7.劇場街の科学者たち / 松原一郎著, 朝日新聞社, 1992.4 (図開架 049:M434)

 「遥かなるケンブリッジ」に優るとも劣らない,イギリス留学記の白眉。シェークスピア劇やオペラが上演される劇場街に位置するロンドン大学キングス カレッジでの日々を中心に,ほほえましい失敗談や有名教授の天才ぶりなど,外国人研究者との交流が素直に香り高く描かれる。いくつかの哀しい別れもある。巻末に至り読者は,著者自身も彼岸に召されたことを知る。松原 一郎 博士は金沢市出身の生理学者で,私が東北大にいた頃,先輩助教授として親切にしてくださった。日本の肝移植レシピエント第1号として登録されていたが,待機中,豪州ブリスベンで幽明境を異にされた。50才の若さであった。医学生物学分野のもっとも権威ある学会であるGordon Research ConferenceにMatsubara Memorial Lectureが開設されたことは,その早世が如何に惜しまれたかを物語る。松原 一郎 先生は,「諦誉興学一道清居士」の法名が刻された墓の下,金沢市野田山に眠る。

8.名誉と順応 : サムライ精神の歴史社会学 / 池上英子著 ; 森本醇訳, NTT出版, 2000.3 (図書庫 210.4:I26)
【原書】The taming of the samurai : honorific individualism and the making of modern Japan / Eiko Ikegami, Harvard University Press , c1995 (図開架 210.4:I26)

 著者池上 英子 教授は米国ニュー スクール大学で活躍中の社会理論学者。比較社会学のグローバルなフレームの中で,人間と社会の関わりのプリンシプルを探る。本書は叢書「世界認識の最前線」の嚆矢として選ばれ,森本醇 氏によって和訳された。日本人によって英語で書かれた日本論という点で,新渡戸 稲造(著),矢内原 忠雄(訳)の「武士道」(Bushido: The Soul of Japan)を彷彿させる。サムライの心性・エトスに「過去数世紀にわたる日本の歴史のなかでつづいてきた個人性と集団主義の間の対立と緊張を正しく認識する鍵」を発見した池上氏は,名誉文化を基礎に形成された「名誉型」の個人主義と集団主義が日本人のアイデンティティーと日本社会の活力を支えてきた,と説く。ベネディクト「菊と刀」を超克し,読むものを元気にしてくれる日本歴史・文化・社会論。

9.日本植物誌 : シーボルト『フローラ・ヤポニカ』 / [シーボルト著] ; 木村陽二郎, 大場秀章解説, 八坂書房, 2000-2007.10 (図開架 472.1:S571)

 シーボルト(1796年ドイツWürzburg生まれ,1866年Münchenで死去)は,日本で最初に西洋医学を教えた外国人医師である。シーボルトは稀代の博物学者でもあった。5年間の日本滞在中,植物から魚類,甲殻類,爬虫類・両生類,鳥類,哺乳動物に至る広汎な生物の標本を採集し,帰欧後Flora Japonica「日本植物誌」とFauna Japonica「日本動物誌」を著した。所収の図譜の多くは日本人絵師川原 慶賀によって描かれた。慶賀は当初シーボルトの要求にとまどったものの,やがて期待どおりかそれ以上の筆づかいを見せるようになったとされる。この過程は,ねじめ正一 氏の小説ではつぎのように表現されている;「芍薬(しゃくやく)とは,このような花であったのか – 慶賀は目の覚める思いだった。俺は今まで何を見ていたのだろうと思った。シーボルトに渡したあの絵が恥ずかしかった。シーボルトはあの絵に描かれた芍薬をニセモノだと言った。それは真実であった。正確でないから,本物そっくりに描いていないからニセモノなのではない。芍薬を芍薬たらしめている何か,芍薬の本態が,あの絵にはまったく欠けていた」(「シーボルトの眼出島絵師 川原慶賀」)。誠に慶賀の図譜は,彩色の有無を問わず,迫真の傑作ぞろいである。魚はいまにも泳ぎ出しそうであるし,動物からは拍動や呼吸,体温が伝わってくるかのようだ。Fauna Japonicaの圧巻は爬虫類・両生類編のオオサンショウウオだろう。本物に出会った以上のインパクトを与える。本書は,Flora Japonicaのパートの復刻版である。シーボルトと慶賀の共同作業による,科学の美を味わってほしい。

10.落日の地平へ / 曠野信太郎著, 文藝書房, 2004.11 (図書庫 913.6:A662)

 昭和18年金沢医科大学専門部卒業の竹田 鍠(ひろし)先生(ペンネーム 曠野 信太郎,2007年3月31日逝去)は,軍医として出征,終戦後シベリア・モンゴルに抑留された。本書は,帰国後60年近い歳月を経て,自身を主人公(「竹村青二郎」)とする小説の形で書かれた回想記である。さし絵11点も自筆。「「中尉どのは若しや金沢市のご出身では?」訊ねてみると老中尉は果して北陸の古都金沢出身であると分り,さらに青二郎と同じ大学の先輩で,しかも高い学問的業績を持つ人であることも分かった」という場面もある。想像を絶する極限の日々がつづくが,青二郎は生けるものにも死せるものにも医師そして人間として命がけの誠を尽くす。青二郎の同僚「加須賀幸男 軍医・通訳」のモデルとなった春日 行雄 医師・日本モンゴル協会「テムジンの友塾」塾長によれば,竹田 鍠 先生は患者・抑留者・遺族から「アムラルト病院の生き佛さま」とよばれ,ウランバートル市の病院跡に建設予定の日本展示室には「竹田日本館」の名が冠されるという。