「おもしろい」を無条件に肯定する

 

平石晃樹先生(人間社会学域学校教育学系)

 

 「私は人間である。人間に関わることで自分に無縁なものは何もないと思う」――テレンティウスの『自虐者』に登場する表現です。もとの作品の文脈を離れて後世で有名になったこの言葉を、わたしは尊敬する大学院時代の先生に教えてもらいました。何の意味があるかわからないけれど気になって仕方がない。こんなことして何になるんだろうと思うんだけれど止められない。やるべきことを放置してついついのめりこんでしまう。でも、それでいい、すべてはつながっている、だから大事なのはじぶんの内に芽生えてしまった「おもしろい」を無条件に・・・・肯定することなんだ――はるか隔たる時空を超えて、古代ローマの喜劇作家に由来する箴言はそう勇気づけてくれているようにわたしには響きました。
「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。太陽のもと、新しいものは何ひとつない」(『コヘレトの言葉』)。すべてが巧妙に計算し尽くされ、あらゆるものがデジャヴュと化したかのごときこの余白なき世界で、時の経過を忘れるほどの「おもしろい」を味わえたならば、それはひとつの奇跡とさえいってよいのではないでしょうか。
そう考える者が、(さまざまな意味で)手にとりやすく、何より(さまざまな意味で)「おもしろい」と感じた本のなかから思いつくままにピックアップしたのがこのリストです。いつだって四方八方に関心が拡散するせわしなさや飽きっぽさを垂れ流しにしているようでお恥ずかしいかぎりですが、でも、「無縁なものは何もない」はず。いつかどこかでどなたかの「おもしろい」に何らかのかたちでつながることができれば本望です。

 

 

1.『ことばが劈かれるとき』 / 竹内敏晴著, 筑摩書房, 1988.1, (中央図書庫804:T136)  ▼推薦文を読む

 「話しかけのレッスン」で有名な演出家の著者は、幼少時に罹った耳の病気により難聴になる。新薬の開発で聴覚を徐々に取り戻すも、敗戦によりふたたび言葉を失ってしまう。「敗戦のときにことばを失った人は、きっとたくさんあるに違いない、と私は思う。そしてそのほとんどは生活の必要の中でいやおうなしに恢復していった。しかし、たぶん、その後三十年近く、日常生活に最小限必要な単語だけ残して、なにも語らなくなったまま今日まで生き続けている人がかなりいるのではないか、と私は想像する」(35頁)。ことばの喪失と再生をめぐるドラマを描いた名著のなかで、やけに印象に残っている一節。


2.『たった一つの、私のものではない言葉 : 他者の単一言語使用』 / ジャック・デリダ著, 岩波書店.2001.5, (中央図書庫801.01:D438)  
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 フランスの植民地時代のアルジェリアでユダヤ人として生まれたジャック・デリダ。この簡単な紹介が実は無限の註釈を要求するほどに複雑なその生は、いまだなお「単一民族幻想」がまことしやかに共有されるこの国にあっては容易には理解できない。そのデリダにとって、「母語」、「文化」、「アイデンティティ」とはいったい何を意味するのか。「私はたった一つの言語しか持っていない、ところがそれは私のものではない(je n’ai qu’une seule langue et ce n’est pas la mienne)」という謎めいた命題をたよりに脱構築の思想家が自伝的回想をまじえつつ思索を展開する。


3.『森有正エッセー集成Ⅰ 』 /森有正著, 筑摩書房,1999 .6, (中央図開架914.6:M854:1)  
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 初代文部大臣を祖父にもつ森有正は、デカルト、パスカルの研究からキャリアをスタートさせ、やがてフランスに留学。その後ながくこの異国の地にとどまり、内省的なエッセーをつづる。「文明と自分。もし自分が、文明の方が求めるものでなかったら、僕はどんなに苦しんでも文明に参与することはできないのだ。関係は全然逆だったのだ。このことはフランス文明に対する態度を確定してくれる。僕はこの文明からかえりみられず、その中から棄てさられる運命の可能性を考え、覚悟した上でなければ、この文明と接触することはできないのだ」(27頁)。異国の地にひとり降り立ったときに襲われる、「ここでは誰もわたしのことを知らず、また必要としてもいない」というよるべなさの感覚。そこをくぐりぬけてはじめて、「経験」が拓かれる。


4.『それで君の声はどこにあるんだ? : 黒人神学から学んだこと』 / 榎本空著 ; 岩波書店, 2022.5, (中央図開架191:E59)  
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 黒人神学の泰斗ジェームズ・コーンにもとで学ぶためにユニオン神学校に入学した著者による日々の回想録。メインタイトルはコーンの口癖 “Find your voice”に由来するとのこと。これは慣用表現としては「自分自身の表現を見いだす、自己を主張する」といった意味になる。「それで君の声はどこにあるんだ?」――まったく面識のないはずのコーンにそう呼び止められてギクリとしたのはわたしばかりではないはずだ。


5.『なぜふつうに食べられないのか : 拒食と過食の文化人類学』 / 磯野真穂著, 春秋社, 2015.1, (中央図開架493.74: I85)  
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 いたずらに歳を重ねていると、「飯も喉を通らない」という表現はただの比喩ではないことぐらいはわかるようになる。考えてみれば、「食べる」とはみずからとは他なるものをからだのもっとも内側に取りいれる怖いいとなみだ。「空腹になれば飯を食う」というおそろしく単純なサイクルは、ふとしたことがきっかけで変調をきたし、いくえにも複雑化する。過食嘔吐に苦しむある女性は、「助けてよ」と声に出しながらコンビニに向かって大量の食糧を買いこみ、過食しては嘔吐する。食べずにはいられないが、食べたものがからだに残るのも許せない。あまりに苦しい悶えが聞こえてくる。


6.『過労死・過労自殺の現代史 : 働きすぎに斃れる人たち』 / 熊沢誠著, 講談社, 2018.12, (中央図開架366.021:K96)  
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 勤勉さや責任感があだとなり死をまねく。そんないたたまれないことがあってよいのだろうか。本書は、「過労死・過労自殺」に追いやられてしまった者たちの生の軌跡をていねいに辿りなおす喪の作業であり、確かなパッションにつきうごかされた静かな抗議の書でもある。


7.『裸足で逃げる : 沖縄の夜の街の少女たち』 / 上間陽子著, 太田出版, 2017.2 (中央図書庫367.6:U22)  
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 沖縄と福島が象徴する現代日本の「犠牲のシステム」(高橋哲哉)。暴力はいつだってより弱い者をつけねらう。でも、ただの受け身の存在ではない。だから・・・「逃げる」。被る受動と受け止める能動が溶けあったところでつむぎだされる、それぞれに特異な生の物語。


8.『学ぶことは、とびこえること : 自由のためのフェミニズム教育』 / ベル・フックス著 ; 朴和美, 堀田碧, 吉原令子訳, 筑摩書房, 2023.5, (中央図開架367.2:H784 )  
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 ブラック・フェミニズムを代表する批評家による教育論。著者の教育体験をもとに「自由の実践としての教育」を構想する。わたしたちはみな、肌の色、貧富、出身、ジェンダーなど、さまざまな境界を設けてその「内」に閉じこもることで自己の安定を確保する。教育の根本的な意義は、そうしてしつらえられた境界を侵犯するよう誘うことにあるとベル・フックスはいう(ちなみに原題はTeaching to transgress)。「魂の向けかえ」としての教育というプラトン・ソクラテス的モチーフがこうして現代において蘇る。


9.『凛として灯る』 /荒井裕樹著 , 現代書館, 2022.6, (中央図開架369.27:A659)  
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 ヨーロッパを中心に著名な絵画を攻撃する抗議活動があい次いで起きている。1974年4月20日、東京は上野の国立博物館であの「モナ・リザ」を標的にした同様の出来事があったことを記憶にとどめている者はいまどれくらいいるだろうか。米津知子は警察へと連行される車両のなかで笑みを浮かべさえして「ようやく、落とし前をつけた」と溜飲をさげた。女性差別と障害者差別に立ち向かったその半生にせまる。


10.『ハイスクール1968』 / 四方田犬彦著, 新潮社, 2004.2, (中央図開架289.1:Y54)  
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 遠い過去よりも近くの過去により遠さを感じることがある。このまえ見た2000年代初頭のドラマでは医師がホテルのロビーで堂々と喫煙しガラケーを使っていた。まさに隔世の感。平成はある意味では明治より遠い。1968年といえばパリの5月革命を筆頭に若者による体制への異議申立てが世界各地でうねりをあげた時節。その余波は極東の島国にもおよぶ。バリケードで封鎖されたのは大学のキャンパスばかりではなかった。当時東京の高校生だった著者がふりかえる。ビートルズからつげ義春まで、文化史・サブカル史も豊富。

 

 

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