コウ弥次さんかたひじはらずにまあよみなせえ(金大生のための読書案内 第40回)
折川 司先生(人間社会研究域学校教育系)

普段は「子ども読書の質的側面を充実させるために…」などと語っているのですが,さて自分の読書の質はどうかというと,仕事以外では少々怪しい。ちょっとお堅いものも混じりはしますが,薄っぺらなエッセイや月刊旅行雑誌,話題作家のミステリーなども欠かせない対象となっています。娯楽性重視の何でもありの雑多読書です。
今回は,娯楽性はともかく,頭と目に優しそうで,気楽に向き合っても許してもらえそうな作品を中心に,統一感なく9点を並べてみました。しかし,一見柔和な顔ぶれですが,油断をしていると「お前ならどうする!どう考える!」と不意を突いて刃を向けてきます。柔らかく平易な文章に織り込まれた鋭い問いに,皆さんならどう答えるか。何を思うか。
1.『犬の心臓』/ ミハイル・A・ブルガーコフ著 ; 水野忠夫訳, 河出書房新社, 2012.1
(中央図開架983:B934)
2.『恋するアダム』/ イアン・マキューアン著 ; 村松潔訳, 新潮社, 2021.1, (中央図開架933:M142)
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昔のSF映画や星新一のショートショートにありそうな設定と,少々粗い展開に拒否感を覚える方もいるかもしれないが,諸所考えさせられるのはブルガーコフとマキューアン。極めて冗長な感のあるサラマーゴより,どちらもテンポが良くて,個人的には断然好きである。
『犬の心臓』では,科学の力で人間の脳下垂体を埋め込まれた犬が次第に変容し,あたかも人間のように振る舞い始める様に人々が戸惑う。作者のブルガーコフは,キーウ生まれのロシア人。彼が今を生きていたら,両国の関係にどんな思いを抱いただろう。名著『巨匠とマルガリータ』の前にどうぞ。
マキューアンの作品は,購入したアンドロイドに平穏な日常が侵食されていく『恋するアダム』を紹介したい。主人公チャーリーの日常に割って入り,彼を柔らかに拒絶しつつ,さり気なく舞台から押し出していくアンドロイド「アダム」。人間と機械の境界線を易々と越えて,知らぬ間に,そしてあっという間に主従の逆転が行われる描写には,困惑というより怖さを覚えるかもしれない。人間性とは一体何なのか,AIの倫理観とは何か。
3.『動物農場』/ ジョージ・オーウェル作 ; 川端康雄訳, 2009.7, (中央図開架I933:N163)
4.『白い病』/ カレル・チャペック作 ; 阿部賢一訳, 岩波書店, 2020.9, (中央図文庫・新書I989.5:C237)
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次は,オーウェルとチャペック。
『動物農場』は,80年前に書かれた寓話であるが,今の自分に関わる多様な風刺をそこに見ることができるかもしれない。静かな狂気に平穏が蝕まれていく描写には既視感もあろう。翻訳は川端康雄のものがこなれているので,是非それを。巻末のウクライナ語版序文も併せて読みたい。『1984』もお薦め。
チャペックの戯曲は,世界中がきな臭い煙に包まれ始めた1937年の作。彼は『ロボット』が有名だが,ある意味極限状態に陥った人々を描き,義とは何かを問う本作もなかなか。ファシストと熱を帯びた群衆との呼応関係の中で,好ましくない状況が膨張していく様など,当時の悲しみも透けて見える。
どちらも比較的短い作品で,サラッと読める。
5.『罪と罰』上下/ ドストエフスキー [著] ; 工藤精一郎訳, 新潮社, 2010.6, (中央図開架983:D724)
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ドストエフスキー。本を紹介する時には,とりあえず彼かトルストイを挙げておけば間違いがない(と,昔ある人から助言をもらった)。まあ,そうだろうなと思う。
重苦しく難解なテーマと書籍の厚みに圧倒されながらも耐え,文化や宗教,地理,歴史などを踏まえて読み進めるのはなかなか難儀なことである。しかし,彼の作品のいずれかとは,人生のどこかで一度は対決(挑戦や対決という態度が相応しいと勝手に思っている)しておいてもよいのではと思う。
ドストエフスキーというと,以前,当企画において『罪と罰』の秀逸な推薦を目にした記憶がある。少々躊躇われたが,結局今回の選にも『罪と罰』を含めることにした。人類の進歩や社会の発展に繋がるのであれば,大量殺戮でさえも善になり得てしまうのか。ナポレオンのような人物なら,それが賞賛されるのか。
ドストエフスキーの諸作は,噂では,亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫が読みやすくて良いらしいが,ここでは表紙の雰囲気がよい新潮版を。訳は工藤精一郎。読後には『カラマーゾフの兄弟』もどうぞ。
6.『東海道中膝栗毛』上下/ 十返舎一九作 ; 麻生磯次校注, 講談社, 岩波書店, 1973, (中央図文庫・新書I913.55:J61)
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『道中膝栗毛』は,古文がちょっと苦手というあなたでもきっと大丈夫。江戸から京,大阪に至る近世の旅の模様や各地の名勝・名物,そして方言。これらは実に興味深い。広重の絵などを横に眺めつつ,時代を超えた空想旅行はいかがだろう。因みに,音読をすると,弥次喜多の間の抜けたところや遣り取りの滑稽さが際立つので,特にお勧めである。講義の合間などに「コリャコリャ」と声に出し,周りを脱力させてもらいたい。 ただ,残念ながら,人を陥れて笑いをとろうとする一九の手法については全く感心しない。例のお笑い芸人のようで下品極まりないという点が作中の一部に見られることは,あえて補記しておきたい。皆さんはどう感じるだろうか。
紹介するのは岩波文庫版であるが,地名等の注釈が古く,その点は今一つかも。
7.『教養主義の没落 : 変わりゆくエリート学生文化』/ 竹内洋著, 中央公論新社, 2003.7, (中央図文庫・新書Ch377.9:T136)
8.『ロシアより愛をこめて : あれから30年の絶望と希望』/ 金平茂紀著, 集英社, 2023.9, (中央図開架302.38:K16)
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竹内洋の新書『教養主義の没落』が,巷で最近また読まれ始めているようである。少々古い著作であるが,先日書店で平積みされているのを見て驚いた。どうも米津玄師が何かで取り上げたらしい。本書は旧制高校を起点として隆盛をみせた教養主義が,戦中戦後の紆余曲折を経て,70年代あたりを境に学生の文化的規範から次第に外れていった過程を当時の世相を踏まえて丁寧に解説している。 もちろん今回は,(紹介する9冊を見ても分かるように)当企画と絡めていわゆる“洗礼本”のようなものを持ち出し,その読書を皆さんに押し付けようという思惑などはさらさらない。
『ロシアより愛をこめて』というと,ご年配の方々はジェームズ・ボンドが活躍するフレミングの作品を思い浮かべてしまうだろうか。もちろん,本作は全くの別物。金平茂樹が,90年代前半に,TBSの支局長としてモスクワに滞在していたころの奮闘記録である。30年前に出版された単行本に,補章を付けて一昨年文庫化された。ソ連崩壊が近づくモスクワの街の様子や市民の息遣いが各所に感じられる。
日露の教育比較をやっていたせいか,ロシア絡みの本の割合が若干多くなってしまった。早く平和が訪れますように。
9.『魔術』蜘蛛の糸 ; 杜子春 ; トロッコ : 他十七篇に収録/ 芥川龍之介, 岩波書店, 1990.8, (中央図文庫・新書I913.6:A315)
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仕事柄,児童文学も最後に一つ。挙げるのは芥川龍之介である。
彼は素敵な短編を数多く残しているので,そのうちの何作かを読んだことがあるという人は多かろう。有名なのは「蜘蛛の糸」や「トロッコ」「羅生門」あたりだろうか。それらの陰に隠れて若干控えめな感はあるが,なかなか秀逸なのが,この「魔術」である(と勝手に思っている)。子ども向けの作品として,『赤い鳥』に掲載されていた。
欲に囚われた人間の愚かさと悲哀が描かれる本作を読むと,自身の心の歪みもミスラ君に見透かされたような気になるかもしれない。もちろん,心のきれいなあなたなら大丈夫。たった数頁ながら『ブラック・ショーマン』を凌駕する面白さ。児童文学ではあるが侮ってはいけない。
因みに,芥川というと,「桃太郎」もお薦め。これはちょっと変化球。幼い頃に親しんだ勧善懲悪の物語とは大きく違うはず。
いろいろ申し上げたが,どれもこれも,難しいことや七面倒なことは考えずに「かたひじはらずにまあよみなせえ」なのである。
