第53回金沢大学暁烏記念式・記念講演概要

[記念式・記念講演]

和田敬四郎附属図書館長の挨拶
金沢大学附属図書館長の和田でございます。明後日4月29日が暁烏記念日でございます。本日は第53回の記念式典を開催するにあたりまして、一言ご挨拶申し上げます。本日はご多用中のところ暁烏家ご当主様、それから大橋様それに金沢大学副学長をはじめ多くの皆さんにご出席いただきまして、誠にありがとうございます。皆様にはすでにご承知のことと思いますが、この式典につきまして少しご説明申し上げます。暁烏敏先生が苦心してお集めになられました5万冊、6万冊とも聞いておりますけれども、たくさんの蔵書を金沢大学の前身であります石川師範学校にご寄贈くださったのがきっかけでございます。昭和24年に旧制の第四高等学校をはじめ、石川師範学校、金沢高等師範学校、金沢医科大学、そして金沢工業専門学校が統合されまして金沢大学が発足いたしました。発足間もない金沢大学が、この文庫、その当時石川師範学校では香草文庫と申しており、香草と申しますのは香の草ですね。それを引き継ぐことになりまして、これを記念して昭和25年に金沢大学の初代学長、戸田正三先生の発案によりまして、暁烏文庫というものが作られたと聞いております。その日つまり4月29日が暁烏記念日とすることになったそうでございます。それ以来多くの方々のご協力を得まして、毎年この日に暁烏記念式典を挙行してまいりまして、今年で53回目になります。ちょうど私数日前に昭和25年4月30日付けの朝日新聞(石川版)のコピーを見せていただいたんですが、その中にこの暁烏記念式典の記事が出ておりました。その記事の中に暁烏敏先生の言葉が引用されておりまして、「私の集めた書物を読んだ若い人々が新しい日本の知性を築き上げていただけると思うとこんなうれしいことはない」と語ったとありました。その当時まだ終戦後間もない頃で、とにかく苦労して生活がやっとだったというふうに私も小学校の2、3年生であまり記憶が定かではございませんが、そういう時代にこのようなことが行われはじめていたということを目にするわけでございます。記念式典を開催するにあたりましては、暁烏敏先生のご遺徳を偲び、深く感謝申し上げたいと思います。ご寄贈いただいた資料は暁烏文庫として現在も金沢大学附属図書館の重要な資料の一つでございまして、大切に保管してまた皆さんに利用していただいているところでございます。

また昨年は東京の大橋和臣氏から暁烏敏先生の自筆の書画、それからいろんなものを多数ご寄贈いただきました。これも暁烏文庫の一部といたしまして保管してまいりたいと思っております。本日も階下に少し展示させていただいておりますが、これは一部でございます。それから本日の記念講演としましては、後でご紹介申し上げますが、松永伍一氏をお迎えして暁烏敏の詩集であります『迷の跡』をめぐってと題してお話いただく予定をしております。最後にこの式典並びに記念講演が有意義なものとなるよう祈念して、私の挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました。

畑安次 副学長の挨拶
本日は金沢大学の暁烏記念式、記念講演に多数の方々にお越しいただきまして誠にありがとうございます。御礼申し上げます。本来ですと林学長がご挨拶申し上げるべきところでございますが、学長多忙でございまして所用につき本日は私がご挨拶申し上げる次第でございます。すでに皆様ご存じのように、金沢大学では大学の教育研究活動というものを広く市民の皆様に解っていただくために、平成12(2000)年の9月から市内にサテライトプラザを開設いたしまして、各種講演会とか、それから広報活動というものをやってまいりました。その後山出市長のご尽力によりまして、この西町教育研修館というものを改修していただきました。昨年4月から職員を常駐させまして、火曜日を除き毎日開設し、今日に至っております。本日のこの暁烏記念式、記念講演も昨年から市民の皆様に多数ご参加いただくことが出来るようにということで市内で開催しておりまして、今回53回ですけれども、本年1月にリニューアルオープンいたしましたこの研修館で行うことになったわけでございます。先程和田先生のご挨拶にもありましたように、金沢大学創立時に暁烏敏先生から5万冊余の寄贈を受けたことを記念して、その遺徳を偲ぶためにこの行事を継続してまいりました。暁烏文庫にはこのご寄贈を記念しまして蔵書票というのが各本に張られております。ご存じの方が多いかと思いますけれども、その蔵書票に先生の次のような歌が書かれております。「読みたしと集めし文を後に来る人に残してやすく世を去る」。私は29年前にこの金沢大学に赴任してまいりました。この歌について古くからおられた先生に尋ねまして暁烏文庫の由来を知ったような次第でございます。戦後の大学教育の出発点、それからその当時の向学の学徒に対する期待といい、先生のお気持ちがよく伝わってくる歌だと素人ながら思います。

それから半世紀、今や全国国立大学は大きく変容しようとしております。先月26日に文部科学省の調査検討会議から『新しい「国立大学法人」像について』という最終報告書が出されました。その中に次のようなくだりがございます。「地域にあっては、公私立大学との連携・協力・支援関係を深めつつ、地域の発展基盤を支える教育、研究、文化の拠点としての機能の充実強化に努めるべきである。」と、そのようにあります。国立大学は、金沢には公立・私立の大学がございますけれども、そういう諸大学と連携しつつ、地域文化の発展に大学が貢献すべきだという主旨でございます。地域の中の大学の存在意義が改めて問われている時代だというふうに痛感しております。このような状況にありまして、金沢大学の将来を考える時、愛読された書籍5万冊余を寄贈された先生の熱い想いを確認することが大切であって、先生のご遺徳、ご意志を継ぐことになろうというふうに考えます。昨秋四高125 年祭というのがございまして、多くの先輩諸氏が角間キャンパスを訪れてくれました。その際私が次のように申したのを覚えております。我々後輩は四高の遺産を食いつぶすことで生き延びてきたのではないかと、新たな近代文化の創造が必要ではないかと申しました。しかし考えてみますと、暁烏文庫には半世紀そこらでは組み尽くすことのできない宝の泉だというそういう気がいたしております。この暁烏文庫の書籍は市民の皆様にも公開されておりますのでご利用いただければ幸いかと存じます。本日は暁烏家のご当主、それから先生の自筆の原稿とか書画等を本学に寄贈くださいました大橋和臣氏にもご出席をいただいております。先程和田先生のお話にありましたように、暁烏先生の生涯を考察課題としておられます詩人であり、エッセイストである松永伍一氏もお迎えしております。53回の記念式典にあたりまして、先生の功績とご遺志を改めて確認するとともに地域の中の大学の存在意義について想いを新たにいたしまして私の挨拶といたします。ありがとうございました。

暁烏家当主 暁烏輝夫氏の挨拶
暁烏です。今年は特に松永先生と大橋さんという、暁烏家にとっても非常にご縁の深いお二人をお迎えすることが出来て非常にうれしく思っております。松永先生はもともと福岡のご実家やお寺を通して暁烏敏と深く、長くおつきあいのあった方ですけれども、私が個人的にご縁をいただいたのは昭和50年頃でした。暁烏敏全集というものの再版を私らの若い世代でやろうじゃないかとなりまして、いろいろ資金とかの不安も多かったんですけども、その時に松永先生に暁烏敏全集の推薦文をお願いしました。それを快諾して見事な推薦文を書いていただいた。これは非常に私たちが力付けられたということがありました。その時にちょうど25回忌の大法要がありまして、そこで記念の講演をしていただいたということがありました。それ以来私は直接お会いすることはあまりなかったんですけれども、いろいろお手紙をやりとりしたり、ご著書を送っていただいたりということでお付き合いを続けております。今日は直接久しぶりに逢ってお話を聞けるということで非常に楽しみしているところです。

私の寺の方は、この春に父親の3回忌の法事を一応勤めまして、私の代になってからこれで少し一段落かなというところです。この間、寺の近くの家の、私と同年輩の門徒さんに、息子さんがおられるんですが、その人が最近町内会の世話をする区長という役についたそうなんです。私が久しぶりに月参りのお参りにいきますと一つお寺にお願いがあると言われるんですね。普段あまり顔も出さない人が改まって何事かなと思っておりますと、皆さんご存じのようにこの4月から学校が週休2日制になりました。町内会でもいろいろ若い親の人たちがおるものですから、果してこれはどうしたらいいかと子供らもたくさんおるし、子供会の世話もしなければならないので、そういうことを自分の代わりに工夫して考えて、ついては寺も手助けをしてほしいと言われるんですね。そういうものかと思って聞いておったんですけども、どうも初めはこっちに要望されることが二つ初めから決まっていて、プリントにも刷られていたんですね。その一つは何かといいますと、子供たちの間で、いじめがあったり殺伐な事件が起こったりしているので、要するに子供に命の大切さというものを寺の立場からでもいいから教えて欲しいと。それからもう一つは、昔からの村のおうちもあるんですけれども、それ以外に新しい団地が出来て、若い人たちが住人となってきている。そういう人たちの方がむしろ子供の数が多いわけで、子供も子供だけど親の方も親の方でいろいろやる気はあるかもしれんが、あまり地元というものを何も知らない。私ら昔からいるものとは話が食い違うところもあるから、ちょっとそのお寺の方からその辺のことを若い人たちに話してほしい。ついては地元で一番有名なのは暁烏敏さんやから、暁烏敏さんについての説明をしてもらったらどうかとそういうことなんですね。

だけどそうかと聞いているうちに初めから二つ決まってえらい手回しがいいなと思っていたんですけれども。私の寺は明治の初めの頃にいわゆる寺子屋という形で小学校で習っていたようなことを教えているんですね。それから戦後いろんな人が暁烏敏を慕ってきておる若い人たちが住み込みでおりましたので、そういう人たちが中心になって近くの子供らを集めて、お経の練習をさせたり、釈尊の紙芝居を見せたり、それから手品をしてみせたりとか、いわゆる日曜学校というのでしょうか、もともとそういう伝統はあったんですね。その一方で全国から暁烏敏に関係するいろんな人が集まってこられまして、講習会を中心にして信心談義をするという、信心の情熱と言いますかだんだん盛んになってくるんですね。他方、地元と言いますか、寺の近くの門徒の人たちがあんまりそういう人たちが熱心に全国からこられるのなら、近くの者がかえって敷居が高いというか遠慮した方がいいかみたいなそういう気風もないことはなかった。言ってみますと信心の深い情熱というものを伝えていく。それをそういう知識もまた一つの伝統として伝えていくということと、それから何も知らない人たちにまず寺というものを知ってもらって、教えというものに親しんでもらう。寺の雰囲気に親しんでもらう。そういうことが常にあるわけです。なかなかそれが一致しないという矛盾があるんですけどね。これはある意味で学校と言いますか教育の現場も全く同じことだろうと思うんですが、私の寺にはそういうことが一つ潜在的にいつも問題としてあります。

だからこの話を聞いた時にその息子さんに言ったんです。ろくに普段寺にもこないような誰かも知らないような子供をいきなり本堂に座らせて、命の話をしたって、それは駄目です。そんなことは後にいる親の方にそういう話してもいいけれど、子供は寺の境内で遊んだり鐘撞き堂の鐘の音を聞いたり、その辺から始めるのがいいんじゃないかと言ったら、それはまあどうせ連れ立ってくるんだから、どっちでもいいですけどって。そんなようなもので例えば命という言葉一つにしましても非常に大事な言葉なんですけれども、ある意味でいうと便利に使われてあいまいな意味になってしまう。真剣に考えだすとなかなか難しい。仏教でも命という言葉を通して、一番大事な仏法の教えというものをいろんな表現で伝えてこようとするんですが、それはなかなか語り尽くせない難しいことでもあるんです。きっかけはどのようなことであれ、そういう場面が巡ってきたと考え、私が引き受けてそれを自分なりに仏法の教えに基づく本当の命というものをどう伝えていけるか、努力しながらやっていこうと考えています。

大橋和臣氏挨拶
ただいまご紹介にあずかりました大橋和臣と申します。今日は感謝状までいただきまして恐縮しております。私の名前の和臣というのは暁烏先生からいただきました。平和な臣下であるというような意味と聞いております。今後、暁烏先生を直接存じあげているという人も減ってくると思いますし、今日は先生の思い出をご紹介しまして。どうしてかなりの量の作品が現れたかということをご紹介して暁烏先生のご遺徳を偲びたいと思います。

先生の思い出というのは私の場合は小学校の低学年のときでして、あんまり記憶は定かでないのですが、姉が一回り上でまだ元気でおりますので、姉を尋ねていろいろ話を聞いて整理してみました。私の父親が明治30年生まれで昭和26年50何歳で亡くなったんですが、若い時は東京の浅草辺りの結構大きな家で育ったようです。そのような由緒のある所でしたが、父は次男だったので、次男は長男と比べたらもう虫けらのように扱われたらしくて、庭に小屋を作ってすねてそこに住んだと言うようなこともあり、悩みが多く、暁烏先生の教えに救いを求めたということのようです。その後父は結婚して東京から京都に移って、中国の水墨画ですね、いわゆる南画の絵描きになりました。私はその京都で昭和15年に生まれ、現在は京都で北区という昔の上京区ですね、この家には暁烏先生がよく泊まられたそうです。何人もの方が先生のお話を聞きに来てくださいました。先生が泊まられた都度書いていただいたというのが今回寄贈させていただいた作品です。その家は和室がありまして、床柱がちょっと曲がったような光った木でしたが、これは暁烏先生がブラジルから持って帰ってくださったコーヒーの木だということでした。今はもう家があるか、ちょっと確認していないのですが、そのような珍しいものもございました。この度、姉の所で今回の話をしたところ、ぜひご当主にお手紙をということで書いた文面の中の言葉を引用してくれということでご紹介させていただきます。

「子供の頃は毎年夏の講習会に両親と共に参加して、今のご住職の母上である宣子さんと遊んでいたのですが、先生は聞いていなくても体から自然に入るものだとおっしゃっていました。内面的なものの考え方、内省、ありのままの自分、逆らうことをしないなど、自然に心に入っております。母は先生のおかげでいつでも自分を捨てることが出来ると申しておりました。大きな驚きで私はとうていそこまでまいりません。」ということが書いてありました。その結果かもしれませんが、姉も影響を受けておりまして、信心したらお金が儲かるとか、病気が直るとか、よく新興宗教であるんですが、話を聞きにいってもどうしても暁烏先生の影響があるから、受け付けないというふうに言っておりました。私の場合は東本願寺の向かい側に講習会の会場がありまして、先生が東本願寺宗務総長でいらっしゃった頃でしょう。母に連れられてお話を伺っております。もちろん私何も理解出来ませんでしたが、先生がその頃流行った「お酒飲むな、酒飲むなのご意見なれど...」という歌があって、そこに「酒飲みの身になってみやしゃんせというけれども、これは酒飲みの身になっているから意見をするのだ。」と先生が仰っている。そのことを小さい子供として覚えております。母、姉も父親の影響は間接的に先生の影響を受けたと思います。私は二階の仏間に寝かされておりまして、いつも見上げると仏壇の上に何か分からない字が書いてあったんです。後で聞いてみましたらこれは「汝、みずからを知れ」と書いてあるんだということで、それを聞いた後と思うんですが、サラリーマンになって何年も経ってから自分を知るのは難しいというふうに深く感じるようになりました。これはやはり間接的に影響を受けたのではないかと思います。

本来我が家は天台宗でした。しかし両親は浄土真宗を信仰するようになりまして、母も非常に深い影響を受けました。いつも両親二人でお経をあげていた姿を覚えています。母親は特によく先生の仰ったことを理解したということで、姉は母の方が父よりももっと先生の詩を理解していたようだと、こういうふうに言っておりました。父は早く亡くなりましたので、その後母が私を連れて松任の明達寺を何度も訪問しました。それは臘扇堂が竣工した時、屋根の上からおもちをまいてお祝いをしていたのをよく覚えております。祖母が亡くなった時も先生に戒名を書いていただいたところも覚えております。今朝は50年ぶりに明達寺に行って臘扇堂を懐かしく訪れました。周りが緑に囲まれて落ちついた佇まいだと思います。

次に先生の作品が何故金沢大学と結びついたかと言いますと。会社の同僚で、技術屋なんですが、金沢大学工学部出身の者がおりまして、私の名付け親は暁烏先生だといつも話していたんでしょうね。彼は、金沢大学新聞に暁烏文庫の記事があって、このように書いてあると言ってその新聞をくれたんです。それ以来私はずっと頭の中にそれがあって、もしそういうものが出れば寄贈するという考えはあったのですが。最近まで外国に7年以上おりまして、定年を迎えて姉からその作品を引き継いでやっと実行出来るようになりました。具体的にどうしようかという時も、会社で中国の上海鉱山ビッグプロジェクトと言うのがあって、山崎豊子の小説「大地の子」に出てくる大型プロジェクトですが、何百人もの中国人が採用され、通訳の方もたくさんおりました。その中に日本で留学されて金沢大学の文学部を出られ、小松の方で勤めておられたという人にこのことを相談したところ、文学部の先生に聞いてみるということで、やっとこのような機会を得ることが出来ました。その作品は母が3、4年前に亡くなりまして、姉が引き継いでいたものであります。私が日本に戻って東京に住むことにしたのでその作品をたくさん預かりました。私も貴重なものを有効に活かすというやり方も分からないし、技術屋でもあるし、息子も技術屋で、宝の持ち腐れになり、散逸しまいかねないと思い、寄贈させていただいたわけです。作品の一部は今日1階にも展示してあり皆様にも見ていただけますが、書が多いんです。その他に『日本後紀』に書いた書とか、お盆に書が書いてあったり、扇子に臘扇堂と書いてあったのもございます。作品は、うちにあるもの全てではなくて、姉が大事に大事にしていて、今回私にもくれなかったものがありますが、そのなかには絵もあるんですよね。一つは暁烏先生だから烏の絵なんです。今実物が20㎝ぐらいの高さでちょっと写真を撮ってきて小さいですが、1階に置かせていただいております。そのほか、私の父の絵に書いた先生の書であるとか、そのようなものもございます。

結局時期が若い時のもので大正10年か昭和10年代ぐらいの中の大正時代のものが多いと思います。書の方は私には残念ながらほとんど読めないんですが、読めたもので面白いのは「お国の大事が今日、勝手なことをぐずぐず言うやつは引っくくって揚子江に流してやるぞ」というのがありました。父親が南画の絵描きで中国へ行っていたせいもあったんじゃないかと思っております。次に姉を尋ねてもっと何かないかと言ったら、先生のお写真を大分出してきてくれました。姉がまだ幼児でご当主のお母さまと一緒に手をつないでいるというのもございます。これら先生の作品が暁烏文庫で長く保管されて、皆様の研究等のお役にたてばうれしいことだと思っております。今日は簡単ですけれども寄贈にいたった経過というものをご紹介させていただきました。どうもありがとうございました。

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