[記念式・記念講演]
●和田敬四郎附属図書館長の挨拶
金沢大学附属図書館長の和田でございます。明後日4月29日が暁烏記念日でございます。本日は第53回の記念式典を開催するにあたりまして、一言ご挨拶申し上げます。本日はご多用中のところ暁烏家ご当主様、それから大橋様それに金沢大学副学長をはじめ多くの皆さんにご出席いただきまして、誠にありがとうございます。皆様にはすでにご承知のことと思いますが、この式典につきまして少しご説明申し上げます。暁烏敏先生が苦心してお集めになられました5万冊、6万冊とも聞いておりますけれども、たくさんの蔵書を金沢大学の前身であります石川師範学校にご寄贈くださったのがきっかけでございます。昭和24年に旧制の第四高等学校をはじめ、石川師範学校、金沢高等師範学校、金沢医科大学、そして金沢工業専門学校が統合されまして金沢大学が発足いたしました。発足間もない金沢大学が、この文庫、その当時石川師範学校では香草文庫と申しており、香草と申しますのは香の草ですね。それを引き継ぐことになりまして、これを記念して昭和25年に金沢大学の初代学長、戸田正三先生の発案によりまして、暁烏文庫というものが作られたと聞いております。その日つまり4月29日が暁烏記念日とすることになったそうでございます。それ以来多くの方々のご協力を得まして、毎年この日に暁烏記念式典を挙行してまいりまして、今年で53回目になります。ちょうど私数日前に昭和25年4月30日付けの朝日新聞(石川版)のコピーを見せていただいたんですが、その中にこの暁烏記念式典の記事が出ておりました。その記事の中に暁烏敏先生の言葉が引用されておりまして、「私の集めた書物を読んだ若い人々が新しい日本の知性を築き上げていただけると思うとこんなうれしいことはない」と語ったとありました。その当時まだ終戦後間もない頃で、とにかく苦労して生活がやっとだったというふうに私も小学校の2、3年生であまり記憶が定かではございませんが、そういう時代にこのようなことが行われはじめていたということを目にするわけでございます。記念式典を開催するにあたりましては、暁烏敏先生のご遺徳を偲び、深く感謝申し上げたいと思います。ご寄贈いただいた資料は暁烏文庫として現在も金沢大学附属図書館の重要な資料の一つでございまして、大切に保管してまた皆さんに利用していただいているところでございます。
また昨年は東京の大橋和臣氏から暁烏敏先生の自筆の書画、それからいろんなものを多数ご寄贈いただきました。これも暁烏文庫の一部といたしまして保管してまいりたいと思っております。本日も階下に少し展示させていただいておりますが、これは一部でございます。それから本日の記念講演としましては、後でご紹介申し上げますが、松永伍一氏をお迎えして暁烏敏の詩集であります『迷の跡』をめぐってと題してお話いただく予定をしております。最後にこの式典並びに記念講演が有意義なものとなるよう祈念して、私の挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました。
●畑安次 副学長の挨拶
本日は金沢大学の暁烏記念式、記念講演に多数の方々にお越しいただきまして誠にありがとうございます。御礼申し上げます。本来ですと林学長がご挨拶申し上げるべきところでございますが、学長多忙でございまして所用につき本日は私がご挨拶申し上げる次第でございます。すでに皆様ご存じのように、金沢大学では大学の教育研究活動というものを広く市民の皆様に解っていただくために、平成12(2000)年の9月から市内にサテライトプラザを開設いたしまして、各種講演会とか、それから広報活動というものをやってまいりました。その後山出市長のご尽力によりまして、この西町教育研修館というものを改修していただきました。昨年4月から職員を常駐させまして、火曜日を除き毎日開設し、今日に至っております。本日のこの暁烏記念式、記念講演も昨年から市民の皆様に多数ご参加いただくことが出来るようにということで市内で開催しておりまして、今回53回ですけれども、本年1月にリニューアルオープンいたしましたこの研修館で行うことになったわけでございます。先程和田先生のご挨拶にもありましたように、金沢大学創立時に暁烏敏先生から5万冊余の寄贈を受けたことを記念して、その遺徳を偲ぶためにこの行事を継続してまいりました。暁烏文庫にはこのご寄贈を記念しまして蔵書票というのが各本に張られております。ご存じの方が多いかと思いますけれども、その蔵書票に先生の次のような歌が書かれております。「読みたしと集めし文を後に来る人に残してやすく世を去る」。私は29年前にこの金沢大学に赴任してまいりました。この歌について古くからおられた先生に尋ねまして暁烏文庫の由来を知ったような次第でございます。戦後の大学教育の出発点、それからその当時の向学の学徒に対する期待といい、先生のお気持ちがよく伝わってくる歌だと素人ながら思います。
それから半世紀、今や全国国立大学は大きく変容しようとしております。先月26日に文部科学省の調査検討会議から『新しい「国立大学法人」像について』という最終報告書が出されました。その中に次のようなくだりがございます。「地域にあっては、公私立大学との連携・協力・支援関係を深めつつ、地域の発展基盤を支える教育、研究、文化の拠点としての機能の充実強化に努めるべきである。」と、そのようにあります。国立大学は、金沢には公立・私立の大学がございますけれども、そういう諸大学と連携しつつ、地域文化の発展に大学が貢献すべきだという主旨でございます。地域の中の大学の存在意義が改めて問われている時代だというふうに痛感しております。このような状況にありまして、金沢大学の将来を考える時、愛読された書籍5万冊余を寄贈された先生の熱い想いを確認することが大切であって、先生のご遺徳、ご意志を継ぐことになろうというふうに考えます。昨秋四高125 年祭というのがございまして、多くの先輩諸氏が角間キャンパスを訪れてくれました。その際私が次のように申したのを覚えております。我々後輩は四高の遺産を食いつぶすことで生き延びてきたのではないかと、新たな近代文化の創造が必要ではないかと申しました。しかし考えてみますと、暁烏文庫には半世紀そこらでは組み尽くすことのできない宝の泉だというそういう気がいたしております。この暁烏文庫の書籍は市民の皆様にも公開されておりますのでご利用いただければ幸いかと存じます。本日は暁烏家のご当主、それから先生の自筆の原稿とか書画等を本学に寄贈くださいました大橋和臣氏にもご出席をいただいております。先程和田先生のお話にありましたように、暁烏先生の生涯を考察課題としておられます詩人であり、エッセイストである松永伍一氏もお迎えしております。53回の記念式典にあたりまして、先生の功績とご遺志を改めて確認するとともに地域の中の大学の存在意義について想いを新たにいたしまして私の挨拶といたします。ありがとうございました。
●暁烏家当主 暁烏輝夫氏の挨拶
暁烏です。今年は特に松永先生と大橋さんという、暁烏家にとっても非常にご縁の深いお二人をお迎えすることが出来て非常にうれしく思っております。松永先生はもともと福岡のご実家やお寺を通して暁烏敏と深く、長くおつきあいのあった方ですけれども、私が個人的にご縁をいただいたのは昭和50年頃でした。暁烏敏全集というものの再版を私らの若い世代でやろうじゃないかとなりまして、いろいろ資金とかの不安も多かったんですけども、その時に松永先生に暁烏敏全集の推薦文をお願いしました。それを快諾して見事な推薦文を書いていただいた。これは非常に私たちが力付けられたということがありました。その時にちょうど25回忌の大法要がありまして、そこで記念の講演をしていただいたということがありました。それ以来私は直接お会いすることはあまりなかったんですけれども、いろいろお手紙をやりとりしたり、ご著書を送っていただいたりということでお付き合いを続けております。今日は直接久しぶりに逢ってお話を聞けるということで非常に楽しみしているところです。
私の寺の方は、この春に父親の3回忌の法事を一応勤めまして、私の代になってからこれで少し一段落かなというところです。この間、寺の近くの家の、私と同年輩の門徒さんに、息子さんがおられるんですが、その人が最近町内会の世話をする区長という役についたそうなんです。私が久しぶりに月参りのお参りにいきますと一つお寺にお願いがあると言われるんですね。普段あまり顔も出さない人が改まって何事かなと思っておりますと、皆さんご存じのようにこの4月から学校が週休2日制になりました。町内会でもいろいろ若い親の人たちがおるものですから、果してこれはどうしたらいいかと子供らもたくさんおるし、子供会の世話もしなければならないので、そういうことを自分の代わりに工夫して考えて、ついては寺も手助けをしてほしいと言われるんですね。そういうものかと思って聞いておったんですけども、どうも初めはこっちに要望されることが二つ初めから決まっていて、プリントにも刷られていたんですね。その一つは何かといいますと、子供たちの間で、いじめがあったり殺伐な事件が起こったりしているので、要するに子供に命の大切さというものを寺の立場からでもいいから教えて欲しいと。それからもう一つは、昔からの村のおうちもあるんですけれども、それ以外に新しい団地が出来て、若い人たちが住人となってきている。そういう人たちの方がむしろ子供の数が多いわけで、子供も子供だけど親の方も親の方でいろいろやる気はあるかもしれんが、あまり地元というものを何も知らない。私ら昔からいるものとは話が食い違うところもあるから、ちょっとそのお寺の方からその辺のことを若い人たちに話してほしい。ついては地元で一番有名なのは暁烏敏さんやから、暁烏敏さんについての説明をしてもらったらどうかとそういうことなんですね。
だけどそうかと聞いているうちに初めから二つ決まってえらい手回しがいいなと思っていたんですけれども。私の寺は明治の初めの頃にいわゆる寺子屋という形で小学校で習っていたようなことを教えているんですね。それから戦後いろんな人が暁烏敏を慕ってきておる若い人たちが住み込みでおりましたので、そういう人たちが中心になって近くの子供らを集めて、お経の練習をさせたり、釈尊の紙芝居を見せたり、それから手品をしてみせたりとか、いわゆる日曜学校というのでしょうか、もともとそういう伝統はあったんですね。その一方で全国から暁烏敏に関係するいろんな人が集まってこられまして、講習会を中心にして信心談義をするという、信心の情熱と言いますかだんだん盛んになってくるんですね。他方、地元と言いますか、寺の近くの門徒の人たちがあんまりそういう人たちが熱心に全国からこられるのなら、近くの者がかえって敷居が高いというか遠慮した方がいいかみたいなそういう気風もないことはなかった。言ってみますと信心の深い情熱というものを伝えていく。それをそういう知識もまた一つの伝統として伝えていくということと、それから何も知らない人たちにまず寺というものを知ってもらって、教えというものに親しんでもらう。寺の雰囲気に親しんでもらう。そういうことが常にあるわけです。なかなかそれが一致しないという矛盾があるんですけどね。これはある意味で学校と言いますか教育の現場も全く同じことだろうと思うんですが、私の寺にはそういうことが一つ潜在的にいつも問題としてあります。
だからこの話を聞いた時にその息子さんに言ったんです。ろくに普段寺にもこないような誰かも知らないような子供をいきなり本堂に座らせて、命の話をしたって、それは駄目です。そんなことは後にいる親の方にそういう話してもいいけれど、子供は寺の境内で遊んだり鐘撞き堂の鐘の音を聞いたり、その辺から始めるのがいいんじゃないかと言ったら、それはまあどうせ連れ立ってくるんだから、どっちでもいいですけどって。そんなようなもので例えば命という言葉一つにしましても非常に大事な言葉なんですけれども、ある意味でいうと便利に使われてあいまいな意味になってしまう。真剣に考えだすとなかなか難しい。仏教でも命という言葉を通して、一番大事な仏法の教えというものをいろんな表現で伝えてこようとするんですが、それはなかなか語り尽くせない難しいことでもあるんです。きっかけはどのようなことであれ、そういう場面が巡ってきたと考え、私が引き受けてそれを自分なりに仏法の教えに基づく本当の命というものをどう伝えていけるか、努力しながらやっていこうと考えています。
●大橋和臣氏挨拶
ただいまご紹介にあずかりました大橋和臣と申します。今日は感謝状までいただきまして恐縮しております。私の名前の和臣というのは暁烏先生からいただきました。平和な臣下であるというような意味と聞いております。今後、暁烏先生を直接存じあげているという人も減ってくると思いますし、今日は先生の思い出をご紹介しまして。どうしてかなりの量の作品が現れたかということをご紹介して暁烏先生のご遺徳を偲びたいと思います。
先生の思い出というのは私の場合は小学校の低学年のときでして、あんまり記憶は定かでないのですが、姉が一回り上でまだ元気でおりますので、姉を尋ねていろいろ話を聞いて整理してみました。私の父親が明治30年生まれで昭和26年50何歳で亡くなったんですが、若い時は東京の浅草辺りの結構大きな家で育ったようです。そのような由緒のある所でしたが、父は次男だったので、次男は長男と比べたらもう虫けらのように扱われたらしくて、庭に小屋を作ってすねてそこに住んだと言うようなこともあり、悩みが多く、暁烏先生の教えに救いを求めたということのようです。その後父は結婚して東京から京都に移って、中国の水墨画ですね、いわゆる南画の絵描きになりました。私はその京都で昭和15年に生まれ、現在は京都で北区という昔の上京区ですね、この家には暁烏先生がよく泊まられたそうです。何人もの方が先生のお話を聞きに来てくださいました。先生が泊まられた都度書いていただいたというのが今回寄贈させていただいた作品です。その家は和室がありまして、床柱がちょっと曲がったような光った木でしたが、これは暁烏先生がブラジルから持って帰ってくださったコーヒーの木だということでした。今はもう家があるか、ちょっと確認していないのですが、そのような珍しいものもございました。この度、姉の所で今回の話をしたところ、ぜひご当主にお手紙をということで書いた文面の中の言葉を引用してくれということでご紹介させていただきます。
「子供の頃は毎年夏の講習会に両親と共に参加して、今のご住職の母上である宣子さんと遊んでいたのですが、先生は聞いていなくても体から自然に入るものだとおっしゃっていました。内面的なものの考え方、内省、ありのままの自分、逆らうことをしないなど、自然に心に入っております。母は先生のおかげでいつでも自分を捨てることが出来ると申しておりました。大きな驚きで私はとうていそこまでまいりません。」ということが書いてありました。その結果かもしれませんが、姉も影響を受けておりまして、信心したらお金が儲かるとか、病気が直るとか、よく新興宗教であるんですが、話を聞きにいってもどうしても暁烏先生の影響があるから、受け付けないというふうに言っておりました。私の場合は東本願寺の向かい側に講習会の会場がありまして、先生が東本願寺宗務総長でいらっしゃった頃でしょう。母に連れられてお話を伺っております。もちろん私何も理解出来ませんでしたが、先生がその頃流行った「お酒飲むな、酒飲むなのご意見なれど...」という歌があって、そこに「酒飲みの身になってみやしゃんせというけれども、これは酒飲みの身になっているから意見をするのだ。」と先生が仰っている。そのことを小さい子供として覚えております。母、姉も父親の影響は間接的に先生の影響を受けたと思います。私は二階の仏間に寝かされておりまして、いつも見上げると仏壇の上に何か分からない字が書いてあったんです。後で聞いてみましたらこれは「汝、みずからを知れ」と書いてあるんだということで、それを聞いた後と思うんですが、サラリーマンになって何年も経ってから自分を知るのは難しいというふうに深く感じるようになりました。これはやはり間接的に影響を受けたのではないかと思います。
本来我が家は天台宗でした。しかし両親は浄土真宗を信仰するようになりまして、母も非常に深い影響を受けました。いつも両親二人でお経をあげていた姿を覚えています。母親は特によく先生の仰ったことを理解したということで、姉は母の方が父よりももっと先生の詩を理解していたようだと、こういうふうに言っておりました。父は早く亡くなりましたので、その後母が私を連れて松任の明達寺を何度も訪問しました。それは臘扇堂が竣工した時、屋根の上からおもちをまいてお祝いをしていたのをよく覚えております。祖母が亡くなった時も先生に戒名を書いていただいたところも覚えております。今朝は50年ぶりに明達寺に行って臘扇堂を懐かしく訪れました。周りが緑に囲まれて落ちついた佇まいだと思います。
次に先生の作品が何故金沢大学と結びついたかと言いますと。会社の同僚で、技術屋なんですが、金沢大学工学部出身の者がおりまして、私の名付け親は暁烏先生だといつも話していたんでしょうね。彼は、金沢大学新聞に暁烏文庫の記事があって、このように書いてあると言ってその新聞をくれたんです。それ以来私はずっと頭の中にそれがあって、もしそういうものが出れば寄贈するという考えはあったのですが。最近まで外国に7年以上おりまして、定年を迎えて姉からその作品を引き継いでやっと実行出来るようになりました。具体的にどうしようかという時も、会社で中国の上海鉱山ビッグプロジェクトと言うのがあって、山崎豊子の小説「大地の子」に出てくる大型プロジェクトですが、何百人もの中国人が採用され、通訳の方もたくさんおりました。その中に日本で留学されて金沢大学の文学部を出られ、小松の方で勤めておられたという人にこのことを相談したところ、文学部の先生に聞いてみるということで、やっとこのような機会を得ることが出来ました。その作品は母が3、4年前に亡くなりまして、姉が引き継いでいたものであります。私が日本に戻って東京に住むことにしたのでその作品をたくさん預かりました。私も貴重なものを有効に活かすというやり方も分からないし、技術屋でもあるし、息子も技術屋で、宝の持ち腐れになり、散逸しまいかねないと思い、寄贈させていただいたわけです。作品の一部は今日1階にも展示してあり皆様にも見ていただけますが、書が多いんです。その他に『日本後紀』に書いた書とか、お盆に書が書いてあったり、扇子に臘扇堂と書いてあったのもございます。作品は、うちにあるもの全てではなくて、姉が大事に大事にしていて、今回私にもくれなかったものがありますが、そのなかには絵もあるんですよね。一つは暁烏先生だから烏の絵なんです。今実物が20㎝ぐらいの高さでちょっと写真を撮ってきて小さいですが、1階に置かせていただいております。そのほか、私の父の絵に書いた先生の書であるとか、そのようなものもございます。
結局時期が若い時のもので大正10年か昭和10年代ぐらいの中の大正時代のものが多いと思います。書の方は私には残念ながらほとんど読めないんですが、読めたもので面白いのは「お国の大事が今日、勝手なことをぐずぐず言うやつは引っくくって揚子江に流してやるぞ」というのがありました。父親が南画の絵描きで中国へ行っていたせいもあったんじゃないかと思っております。次に姉を尋ねてもっと何かないかと言ったら、先生のお写真を大分出してきてくれました。姉がまだ幼児でご当主のお母さまと一緒に手をつないでいるというのもございます。これら先生の作品が暁烏文庫で長く保管されて、皆様の研究等のお役にたてばうれしいことだと思っております。今日は簡単ですけれども寄贈にいたった経過というものをご紹介させていただきました。どうもありがとうございました。
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[和田館長の講師紹介]
和田でございます。最初に松永先生を少しご紹介させていただきます。松永先生は先程の畑副学長の紹介にもありました通り、詩人、エッセイストということで知られておられる方ですが、1930年に福岡県にお生まれになっておられます。八女高校を卒業の後、中学校で教職についておられまして、およそ8年間中学校の教師として活躍されたそうでございます。その後やはり文筆活動といいますか、1957年から文筆生活に入られたと聞いております。先生の作品の中を見ていきますと、非常に多種多様にわたっているんですが、文学、民俗、それから美術、宗教等本当に広範囲にわたった論評がございます。昨晩も私少しお話聞かせていただいておりましたら、先生のご実家は農家だったということもあったんでしょうか、農民史、日本農民詩史という本をおかきになられまして、ですからそういったことを中心に文筆活動が始まったのではないかと推察しております。特に子守歌の収集ですとか、それからキリシタンに関したこと、古代のガラスのことなど、こういった面での研究者としても著名な方でございます。先程申しました日本農民詩史全5巻という大作でございますが、これが毎日出版文化賞特別賞を受賞されております。テレビですとかラジオでもご活躍されておりますが、暇な時をみつけては絵を書かれるそうでございまして、この絵は恐らくまた素人ではなくて既に10数回にわたる個展を開いておられるということもお聞きしております。代表的な著書をあげさせていただきますと、「日本の子守歌」「天正の虹」、「散歩学のすすめ」ですとか、「フィレンツェからの手紙」、それから「金の人生、銀の人生」、「感動の時間」、最近では「縁ありて人生楽し」など140 冊以上になるそうでございます。最近のようにIT技術といいますか、そういったものが進歩してきまして我々も日頃の生活がなんとなくあわただしいうっかりしていると流されてしまいそうなこういう時期に先生の書かれたものを読んでいますと、人の生活それから物の考え方、もっと言いますと人それ自身を深く考えてみるというそういったことが伺い知れるところでございます。今日は、暁烏敏氏を偲ぶ記念式典の特別記念講演といたしまして、暁烏敏の詩集『迷の跡』を巡ってという題でご講演をいただくことにしております。どうか先生よろしくお願いいたします。
[松永伍一先生講演]
演題:「暁烏敏の詩集『迷いの跡』をめぐって」
詩と批評を書いております松永でございます。暁烏先生と私は、生前お会いする機会がございませんでしたけれども、大変縁が深うございまして、私の故郷柳川の円照寺というお寺がございますが、私がよく行くお寺ですから、おばちゃんというか坊守りさんが平松操さんという方で、暁烏先生の身辺のお世話をしたり、秘書的な役割をなさった方でございました。それで私が文学を始める頃、お寺によく通っておりまして、暁烏先生の「十億の人に十億の母あらむも我が母にまさる母ありなんや」という半切がかかっておりまして、その前でお坊さんや操さんと文学の話をする。操さんは万葉集に大変詳しい方でございましたので、17、18の戦後の若者である私が、暁烏先生の書を眺めながら文学の道に入っていったようなわけであります。書庫もございまして、書庫には蒲池繁さんの集められた様々な書の中に暁烏先生のものも沢山ありました。その紙の匂いというものを私はまだよく覚えております。そんな私の文学の温床みたいなところが円照寺でありまして、それはまた暁烏先生に大変縁の深い人たちによって築かれているお寺でもありました。今は暁烏先生の最後のお弟子さんであった暁青さんという方が私の頼み寺の跡継ぎをしていらっしゃいます。ですから私は故郷に帰ると必ず円照寺を尋ねていきますが、それはある意味でお会いすることのなかった暁烏先生の面影に出会う瞬間でもあります。そういうことが大変懐かしい方としてずっと見てまいりました。全集も読んできましたが、詩人として一つだけ、私が元気なうちに言っておかなければいけない問題があるなと思っていることが、この『迷の跡』を巡るいろんな問題です。暁烏先生は詩集という形でお出しになったこれが最初の本でございますけれども、そういう詩集が一人の若き僧によって出されたということの意味合いと、それからその詩集が出た頃の日本の近代詩はどのような状況にあったんだろうかということを突き合わせながら、一度どこかで何かを書かなきゃいけないなあとずっと思い続けておりました。今日はそういう機会を与えていただいてとても幸せに思っております。
暁烏先生の詩とか歌とか句とか、たくさんありますけれども、そういう文学の面における暁烏敏の業績というものがどういうふうに捉えられ、論評され、問題提起をしているのか細かいことは分かりませんけれども、さきほど松田章一先生と久しぶりにお会いして、詩についてどなたか特別な研究をなさっていらっしゃる方はおありでしょうかと聞いたら、いやないと思いますと仰っていました。今日は詩人の立場から暁烏敏の最初の詩集がどういう歴史の上での位置を占めているか、暁烏の個人の思想表現においてどのような位置を占めているのか、その辺のお話が出来ると嬉しいなと思っております。与えらた時間は1時間でございますので、1時間でまとめたいと思います。
昭和49年でございました、西村見暁さんが東京の私の家にお見えになりまして、こんな大きな風呂敷包みを下げていらっしゃったんですが、もちろんいらっしゃることは分かっておりましたので、お迎えしてお話したんですが、実は『暁烏敏伝』というのを野本永久さんがお書きになったと、これがその原稿なんですと、こんな大きな包みなんですよ。それでなんとかこの版元を探してくれないかと、版元を探す以上は私も当然読まなきゃいけないし、私も読みたいと思っておりました。その膨大な原稿をめくりながら、私の本をよく出してくれている大和書房というところにお話をいたしました。縁というのは不思議なものですね。大和書房の社長が私より年齢が3つぐらい上なんですが、青年時代に毎田周一先生の薫陶を受けている男だったんです。それで毎田先生を通じて、暁烏敏という方のお仕事、その中身も自分はある程度承知しているつもりだと、ぜひうちでやらせてほしいということになり、それで私はこんな厚い原稿を読みはじめたんですね。平松操さんから聞いてた輪郭というものがありましたが、私は幼かったし若かったものですから、暁烏先生の特徴だけは掴んでいたつもりなんですけれども、その全体像というものがこの原稿をめくりながら見えて来はじめまして、非常に嬉しかった思い出があります。あの本が出て今でも時々めくってみますけど、非常に突っ込んだ書き方もしてありますし、人間的な魅力とそれからお人好しの部分とかそういうのも実にユーモラスに出てくるところもあります。暁烏敏という人はこういう方だったんだなと思って、やっぱり詩を書く人間としては、『迷の跡』のことはどう書いてあるだろうか、何も書いてないんですね。これはちょっといかんなと思いました。いかんなというのは全体にとってそれほど重要じゃないと思われたかもしれませんが、文学史の中で取り直して良いテーマを書かれた詩集なんです。だから文学者が本当はもうちょっと本気になってほしかったけれども、どうも仏教的なテーマに触れて論ずる力がある詩論家と言いましょうか、詩に関する批評家がいないという問題、これは遡れば明治時代からそうなんですね、日本では。とってもそれは残念だと思って、それ以来ずっと気にかかって、ようやく今日理解ある皆様の前でその辺のことに触れることが出来るわけでございます。とても嬉しく思っています。
それから『歎異抄講話』が講談社の学術文庫になりました時に、解説を書かせてもらいました。あれで私は『歎異抄』を読んでいた時の読み方と、少し違う部分に触れることが出来ました。今までの『歎異抄』の読み方というのは、それぞれの抄についての解釈になっているんですね。ところが暁烏先生の場合には自分が投影されている。単なる解釈ではなくて自分の中に入れ込んでおられる。だからあの『歎異抄講話』というのはまさしく暁烏敏が『歎異抄』を通じて自己を告白しているような様相を持っている。そういう意味でこれまたすごい本だなと思いました。そういういろいろ『歎異抄』について書かれた本を読みますけれども、名前を挙げませんが、割に有名な哲学者なんかの書かれた本はちっとも面白くないですね。つまり胸を打ってこないですね。親鸞聖人の人間的な悩みとか悲しみの深い井戸からくみ上げられた言葉じゃないわけですよ。あの時代の浄土観というものはこういうものであったとか、あるいは当時の天台とか真言みたいな宗教ではこういう角度で論じていたけれども、親鸞のような突っ込み方ではなかったというふうには書いてありますが、私という主語が解釈する、お話をする主語が欠けているわけですね。そういうことでの不満もありましたが、今回また改めて『歎異抄講話』をめくってみまして、すごい言葉が書いてあるんですね。「『歎異抄』は死の問題に驚いた人、事に失敗して失意の境にある人、倫理的罪悪に苦しむ人でなければ味わうことが出来ないであろう」、この最後の倫理的罪悪に苦しむという問題をここでストレートにお出しになって、これは今日終わりの方でお話をしたいと思っております。暁烏先生の『生くる日』とかそれから『温かき大地』ですか、あの辺に繋がる問題ともまさにそのままストレートに直結している。しかしこの『歎異抄講話』をお書きになったのは、ちょうど今日お話する『迷の跡』と時期が重なっているんですね。27歳の若者がすでにこういう着眼で『歎異抄』を受け取っていた、ということの恐ろしいほどの新鮮さというものにうたれます。
私はその『歎異抄講話』を読ませていただき、解説を書きながらとにかく『歎異抄』というものを、そういうふうに私ごとと重ねることによって、『歎異抄』の深い意味合いを引っ張りだして訴えてくれた人が、既に日露戦争あたりに出ていたということの驚きですね。もちろん『歎異抄』に触れた方たちは明治10年代からぼちぼち何人かの先達がすでにいらっしゃるようですけれども、暁烏先生のような自分を丸ごと投げ出すようにして受け止めておられる方は全くない。そういう意味で先駆性がある。同時にこの『迷の跡』という詩集がその時期に重なって出てるということをきちんと捉えてみなければいけないだろうと思っております。
さて『歎異抄』の話は皆さんの方が詳しいと思いますが、『迷の跡』にもうちょっと深入りしてみたいと思います。これは明治36年に出ておりますので、日清戦争と日露戦争の丁度谷間の時期に当ります。この時期がどういう時期であったかということを考えなきゃいけないですね。暁烏敏が個人的にどういう体験をしていたのかと、時代はどういう動きをしていたのかというのが重なってその辺から表現というか言語表現というのが出てくるわけです。だから個人的に悩みがありました、悩みを書きましたというだけじゃなくて、時代がそれを書かせる力を与える、そのことを考えないといけないわけです。その『迷の跡』の端書きをみますと、「道を求むる若き僧が、恋に惑ひ、利に酔ひ、名に渇き、位に餓ゑし悶えの跡、世に示すも恥づかしや、己が汚れの悶えの跡を世に公にするさへ、迷へる技なのかな」と前書きしてあります。27歳の若き肉体が、丁度浩々洞で学びつつ、『精神界』という雑誌の編集に携わり、精神主義というものを掲げて、一つの思想運動をやっていながら、一方では肉に悶え、恋に狂い、そしてそれをどうしても隠しおおせないという問題です。つまり日記に書くということでも駄目なんです。もっと表現して、その文字を人に見てもらうという手段が必要になってくる。そこまで暁烏敏という26歳から27歳にかけての若者を駆り立てているエネルギーというのは一体何だろうかと、やはり考えてみる必要があります。そして時代もちゃんと風を周りから吹かせてくれていたということがあります。
あの時代は大変面白いと言えば面白いわけで、日本にヨーロッパの近代的な物の考え方が入ってきます。その中にキリスト教という問題があります。キリスト教の思想を通じて西洋の文明に触れるということが一般的にありました。それからクロポトキン等の社会主義思想というのがほぼ一緒に入ってるんですね。そうしますとキリスト教におけるその神に対する信仰と、社会主義だの唯物論、神を否定し、人間の物質的様相みたいなものを主張しながら労働とか賃金とかの問題、あるいは資本の蓄積の矛盾とかそういうものを訴える、全く違う考え方が同時的に出てくる時代なんですね。暁烏先生たちの浩々洞は、むしろキリスト教とは違うけれども日本独自のあるいはアジア独自の精神主義というものを掲げつつあった。しかし、単なるアジア偏重ではなかったですね。ギリシア文明以来の精神主義みたいなものを自分たちの思想の中に入れたグローバルな精神主義というのがあった。だから仏教だから、インドから始まったお釈迦様の思想を忠実に引き継いでさえいれば問題はストレートに理解出来るということではなくて、もっと世界的な規模の中で、精神主義をかかげた人たちがギリシアにもいたと、イギリスにもいたと、ドイツにもいた、そういう人たちも学びながら日本独自の精神主義を打ち立てなければいけないという姿勢が、浩々洞の方向としてあったと思います。そういうことを暁烏先生は体で丸ごと感じ取りながら、一方で今前書きでお読みしたような「恋に惑ひ、利に酔ひ」という自分の本能を詠わずにはおれなくなっている。精神主義だけ掲げていますとこれは首から上の問題のようになりますが、肉体そのもの、肉の内側で悶えているもの、性欲みたいなものも全部詩の形で、ポエムの形で表現せざるをえなかったその結晶が『迷の跡』なんですね。
これを書くのをとても恥ずかしいとおっしゃった。恥ずかしいとおっしゃりながら公にせざるを得ない気持ち、自分の裸の身を晒さざるをえないという、このギリギリの選択というものを私たちは文学者として学ばなきゃいけないと思っております。ただしあの時代の日本の詩というものはどういう流れをしていたのかというのもここで知っておかなきゃいけないと思います。最近の近代詩というものが、つまり明治以降の近代国家に相応しい言語として成り立った近代詩というもの、その祖先というか始まりというか糸口は誰だろうというのは、ちょっと議論がありました。いやこれは明治時代の人ではないんじゃないかと、江戸時代の俳人与謝蕪村の詩の中に、近代詩の源をなすものがあるという研究がなされました。私も大変興味のあることなんです。幕末の久坂玄瑞という勤皇の志士がおりました。25歳で亡くなっていますが、彼が書いた長詩というのがあって、これなんかはどうも近代詩的な要素が出ているんですね。しかし今までの詩の研究家たちからするとそういうのは全く無視して、明治以降にどういう種が蒔かれてどういうふうに広がっていったかから論じないといけないという考え方があり、そこに則して言いますと、日本近代詩というのは昔は短歌と俳句と詩が同じぐらいのバランスで分立した、それぞれが独立した時期の詩の部分を近代詩というようにしてあるわけです。それはだいたい明治15年頃からですね。維新が一応流れを作りはじめた頃、その頃もうすでにヨーロッパの詩を翻訳して日本語にした賛美歌もその時代に出てきますが、新体詩というのが明治15年頃と思います。そして今までずっと万葉集以来あった短歌と並んで洒落っ気のある詩というものが、そこで自立していくんです。立ち上がっていくんですね。
だいたい五七調、七五調で成り立っているわけです。非常にいいリズムがあります。そのバックアップしたのが当時の最大の文学者、最大の知識人といわれた森鴎外なんです。森鴎外が『於母影』という詩集を作って初めていろんな人の詩をまとめて、これからの詩のありようというのはこうなるものであるというサンプルを示したんですね。その刺激を受けて島崎藤村たちが本格的におれは詩人の道を歩むと名乗りを上げて出来あがったのが『若菜集』という非常にきれいな七五調の詩であります。暁烏先生も若い頃藤村の『若菜集』も読んでおられますし、その中に恋の喜びを唄う歌が、パーセンテージでははっきり言えませんけど、相当の部分を占めるわけです。つまり新しい詩というのは恋の詩を書くものだという錯覚がすでに出来上がってきたかのように恋の詩が多くなっていきます。それはちょっと甘すぎるんじゃないかと、もう少し中国の漢詩のような骨格のしっかりしたものも日本の新しい詩の中に入れ込まなきゃいけない。藤村のは女々しいと女性的な叙情詩が気に入らんという人が出てきました。土井晩翆という人が、土井晩翆と言えば『荒城の月』で皆さん知ってらっしゃると思いますが、「星落秋風五丈原」とか中国の歴史的なドラマを基にして詩を書いた方なんです。だから男性的な表現ですね。暁烏先生は土井晩翆をかなり意識してこられて、『迷の跡』の中にも土井晩翆に捧げる詩みたいなものが入っているんです。出来上がり具合は、あまりよくないが、結局お前さんの詩に共鳴するところもあるけど、ちょっと違うのかなという思いで書かれている。しかし藤村の場合は、『若菜集』から『落梅集』に流れていく詩は相当恋の詩を書こうとする暁烏敏青年にとっては刺激の強いものであったと思います。こういうのは明治30年、32年頃出て、その影響を受けて暁烏敏は詩をノートに書き始めていくんですね。浩々洞の『精神界』という雑誌が出始めて第3号だったと思いますが、「親鸞聖人の誕生」という詩があるんです。そういう詩をお書きになったのは浩々洞の思想的な方向性と変わらないと思いますが、これをよくよく見ますと日本の今から百数十年前からの近代詩の歴史の中で初めての試みなんです。つまり仏教的題材というか、親鸞聖人という人物がどのような背景で生まれ出たのか、そして何を訴えようとしていたのかというのを近代詩の中に入れた最初の仕事なんですね。それが『迷の跡』の中に収録されております。しかし出来そのものはあんまりいいとは思いませんが、こういうものがあの当時の詩なんでしょうか。詩の批評家の目に止まらなかったのか、目に止まっても論じられなかったのか分かりません。そこに日本の近代における仏教と文学の接点の曖昧さというのが露出していると思っております。だからこういうものを評価し、それできちんと捉えながら、例えばですね「罪に泣くとよそは何か/煩悩にまなこさえられて/摂取の光明みざれども/大悲は常に世を守る」こういうふうな書き方されますと、親鸞聖人の和讃の影響がもろに出て、暁烏という人の受け取った言語になっていないわけです。
でも問題提起としては大変大きな意味があったと思います。誰も論じませんでした。何故かと言うと、あの当時詩について語れる人たちというのはヨーロッパの翻訳のできる人でした。もちろん日本語も出来て、ヨーロッパの言語が分かって、そしてヨーロッパのこれくらいのレベルの詩人たちがいるんだと、それに比べて日本の詩人たちの叙情の質が甘いよ、少し甘すぎるという批評が出来たわけです。比較論として批評が出来たわけです。そういう批評家が本格的に出た最初の人が上田敏という方です。上田敏は翻訳を通じて私たちのヨーロッパの詩の理解の大きな手助けをした人であります。「秋の日のビヨロンのためいきの身にしみてうらかなし」という、あのヴェルレーヌの詩はまさにこれを読んで私たちは暗唱したんです。だから日本の詩がそういう批評家によってそっちの方に向けられてヨーロッパの近代的な表現こそが我々が学ぶべき詩であるというふうになっていったことと、それから仏教的な題材なんかは詩にするものじゃないと、それはお坊さんたちの世界じゃないのというような逃げがあった。つまり仏教的題材についてのきちんとした批評が出来ずに、暁烏の『迷の跡』はすっと文学詩の中から消えていって、それをどのように掘り起こしながら暁烏の全体性のなかでこの特異な詩の分野をどう位置づけていくかというのはやっぱり宿題のひとつだろうと思います。
今回2回に亘って読み返しまして、まあまあだなあとかちょっとこれは言葉遊びが強すぎるとかいろいろ感想を持ちましたけれども、その中で一つ非常に完成度の高いものがありました。これはほとんど平仮名で書かれている詩なんですね。「常住の光」という詩です。
木はみななびく
かぜのひる
そらにうごかぬ
くもをみき
くも みなはしる
あれのよひ
てんにうごかぬ
つきをみき
つきさいはうに
めぐるあき
きたにうごかぬ
ほしをみき
ものみなうごき
ときめぐる
よにじゃうぢゅうの
ひかりみき
私はこの詩は島崎藤村も書けなかった詩だと思います。同時代の藤村は徐々に小説家に移行しようとしておりましたから、『破戒』という皆様ご存じの小説がありますけれども、あの『破戒』に向かおうとしている時期に暁烏はこういう詩を書いています。つまり藤村が恋の詩で日本の独特の叙情詩人としてクローズアップされましたが、こういう日常的な捉え方、仏の存在を歌い込む捉え方というところまでは全くいけないで藤村は終りました。あと誰もそういうテーマで書きませんでした。少し時間が経ちますとキリスト教の立場でこれに近い詩を書いたのは山村暮鳥とか八木重吉という人たちで、これはあきらかにクリスチャンで、暁烏敏のこの27歳か26歳頃書いたこの「常住の光」というのは非常に研ぎ澄まされている。自然を歌い込んだように一見見えますが、そういう自然を歌い込みつつ、自然の奥にある宇宙のエネルギーのようなものに対する大いなる畏敬というのがここに出ている。言葉に無駄がないし、しかも漢語を使っていない。漢字の固い言葉を一切排除している。自分の息づかいでお念仏を唱える気持ちでこの詩は出来上がったんです。こういう優れた詩があったにもかかわらず当時の詩壇の人たちは誰も見向きもしませんでした。これは大変残念なことだと思います。
あの日露戦争が始まる前くらいの社会情勢の中で、藤村操が華厳の滝に飛び込んでそれが話題になり、自殺者が大変増えた時代があります。哲学本来に呑まれた時期があります。厭世思想、世の中いやになっちゃったよという人たちが増えた時期であります。そういう中で、もしこういう『迷の跡』の中の優れたいくつかの作品が、詩壇の側からでも問題提起されていたら面白かっただろうなと思います。暁烏先生の日記を読んでいますと、多岐にわたる読書をなさってますが、社会主義に関するのも読んでおられますね。内村鑑三と接触もありましたし、それからキリスト教と社会主義の両極端の表現された内容を自分の中に取り込みながらアウフヘーベンしていくようなところが暁烏敏の中にはあったと思います。そういう現実の勉学、勉強、読書の中ででもそういう動きがあって、そこからこぼれ出た、溢れ出た詩がそれと繋がりがないはずはないわけで、その辺を分析する人が誰もいなかった。これはとても残念でなりません。
そこで、その後の詩集ですが、これは詩と歌と一緒になった『生くる日』というのがありまして。大正9年頃のものですね。そこにはもう大きな変化が生まれます。ご承知のように大正時代というのは、大正デモクラシーという、何かヨーロッパの新しい思想がごく自然に入って、天皇も大変のどかな天皇様でありましたし、ヨーロッパのセンスなんかが、感覚が割にすーっと広がっていた時代でもあります。その時期に日本では北原白秋とか三木露風とか萩原朔太郎とか室生犀星とか、日本の近代詩の完成というか、到達点を示したような人たちが出てくる時期でもあります。もうその頃は暁烏敏はいわゆる詩集をだそうという意図はなくて、もう日記代わりに詩を書いていくんですね。それが恋の詩だったわけです。最初の妻であった房子という方とは10年一緒におられて、房子さんは26歳ぐらいでお亡くなりになります。結婚された時が丁度『迷の跡』が出る時期でもあるわけです。新妻と本当に数える数日か、10日そこら一緒に自坊にいて、そして自分はもう浩々洞に帰っていき、別居生活の中でその『迷の跡』が書かれ、そこに収録されている。ある意味でそのごく普通の結婚生活じゃない状態の中であの詩が書かれました。この後に出る『生くる日』という詩のモチーフがまた女性の問題なんです。もっと切実な女性問題なんですね。こういうふうに独白しておられます。
「房子が死んだ当座には、自ら浄化した気持ちになって、清僧となりすまさんと誓うたが、葬式すんで5日目に、早やおお恥づかしい、女が欲しい気がおきた。みづからあきれていやになって、凋落の自我に泣きました。」
こういう抑えがたい性欲、愛欲、愛憐の情みたいなものも、どうしても観念で抑えきれないわけですね。『迷の跡』が出版されて3日目ぐらいに清沢先生がお亡くなりになっています。だからあの清沢先生は原稿のいくつかくらいはお読みになっていたかもしれませんけれども、詩集になったものを師匠には手渡すことが出来なかったわけですね。もしあそこで手渡されたらどんな指摘をなさったかというのは、これは仮説をたてるのはよくないんですが、ちょっとドラマとしては面白いと思いますね。暁烏敏の青春の文学的記述を師の清沢満之がどう受け止めて批評したか、ばっさり切ったか、いくつかいい詩があったよという程度だったのか、こんな表現じゃなくてもうちょっと哲学性のある論文を君は書きたまえと仰ったかどうか分かりません。でもこの詩集を師匠の清沢満之の手のひらに乗せてみたかったなという思いはありますね。それは不発に終わって、そして時が過ぎて妻を亡くして、そして亡くした翌年に次の奥様と結婚されて、次の奥様との日常を歌うんじゃなくて、次に現れた恋人との歌になって、つまりポエジーがものすごくかき立てられていくわけです。三角関係になるわけです。ご自身でも三角関係という言葉を使っておられるんです。
『温かき大地』というその次に出た詩と歌を集めた本の中に、「二人の女に愛を注ぐ叫びをあげましたところが、多くの知人から叱られました。幻滅に泣いた方もありました。宗教家があんなことをしてと難ずる人もありました。私は一人を愛する女がいるのに、また新しい一人の女に愛の心が熱しているとは、といはんばかりです。愛の三角関係は決して穏やかなものではありません。安らかなものではありません。ぢゃというて、私には避けがたいのであります。悩みつつ悶えつつ進まねばなりません。私は苦しいからと言うて、心に燃えている愛の火を消すことは出来ないのであります。苦しみを忍びつつ不道徳観の誹りを受けつつ、どうすることも出来ない愛の道を進んでいきます。死ぬところまで、いや三人が生きていくことに全力をつくして進んでいきます。」と書いてあります。
その愛の記録が『生くる日』という詩集なんですけれども、ここを読みますと、また新しい問題が近代詩の中で出てくるんですね。つまり愛の苦という問題をここまでストレートに書けた詩人たちがいなかったということです。詩人たちは恰好をつけて余所行きの詩を書いております。問題の核心に触れないで、レトリックでそこをうまくカバーしていきます。そのレトリックのうまさで、あああの人はうまい詩人だなと言われていきますから中身を露出させないんです。暁烏敏は露出させました。例えば『生くる日』の中に出てくる詩ですが、これは無題と言うか題はついておりません。
そのうるんだ眼をよ
あゝ涙があふれてをる
そのあかい唇よ
あゝ血がもえてをる
そのつよき抱擁よ
あゝ全身の力がこもつてをる
そのくれないの頬よ
そのとどろく胸よ
その切なげのいきよ
かはい子よわれによりそへ
いとし子よわれにいだきつけ
わが力のかぎり
わが血のかぎり
おまへを抱かん
おまへと共に燃えゆかん
これは詩として出来がいいか悪いか一応別にしまして、こういう表現というものが近代詩の人たちではやれませんでした。つまり『歎異抄』に泣いて『歎異抄』によって救われた人なるが故にこういう詩が書けたという自負があります。だからこの詩を書いて世間の批判、誹りを受けたって私の真実を書くんだから何恥じるところがあろうぞという開き直りもあります。それが近代詩の中で突出した部分でありましたが、このことも詩の批評家から論じられていなんですね。これもとっても残念に思います。
それから、私再度読み返して好きだったのは、恋人の立場を思うばかりながら、皆様もご存知と思いますけれども、原谷とよという方なんですね。あの方への思いを描いたこれ大変きれいな、こんなに男が想いやれるという、私なんか冷酷非情な人間で、女房からも私が外に行くとあなたの食事の用意をしなくて済むから助かるわと言われるような人間で、女房を詠ったり、愛を詠ったりするのが大変苦手なほうなんですが、ここに出てくる恋の歌というのは、詩の上でもよく出来ているなと思いますね。
今朝雪が降ってゐた
いま雪がしきりにふっている
寒い風さへ吹いてゐる
あの子は来るだらうか
来れるだらうか
親たちが弱い体にと
とめはしないだらうか
ほんたうに弱い体なんだから
熱でも出してゐないだらうか
案ぜられることぢゃ
胸さわがしい朝ぢゃ
でもあの子はきっと来る
あの胸にもゆる愛の火が
どうして雪に負けようぞ
こんなに待ち焦がれてゐるわしの心が
どうしてひきつげずにおかうぞ
ああ寒かった、逢ひたかったと
とびつく様にすがりつく
あのかはいふくらんだ頬を
さうだきっと来る
待ち遠い午後だ
だいたい日本の近代詩から現代、昭和になってから書かれたものを現代詩といいますが、私たちは現代詩の書き手の一人と思われていますけれども、もうこういう詩は書けませんね、誰も。現代の詩人たちは、まずいわゆる純愛みたいなものは詩の定番とするに足らずという捉え方もしております。それからヨーロッパの新しい詩、技術的にも新しく表現された詩の影響を受けてからを現代詩というものですから、みんな捻りすぎなんですね。くせだま、ストレートの直球を投げないで、捻った玉を投げる癖がついております。ですからこういう純粋な愛なんていうのは、くすぐったくて書けなくなっているわけです。時代は大正9年の作でありますから近代詩の時代なんです。北原白秋たちが一番想いが高まってそれが詩壇的評価にもそのままつながるという、いわゆる近代詩の蜜月の時代。それでも白秋はこんなふうな優しい詩は書いておりません。彼は彼なりに人妻に恋をして、留置場に入れられて、二番目の妻に逃げられて、三度目の妻がきちんとした方でしたから、その妻と晩年まで幸せに生きましたが、北原白秋と私は同じ九州の博多の生まれで、白秋をひいきにしたい気持ちと、白秋は嫌いだった若い時代のことを思い出したりしながら複雑な気持ちなんですが、客観的に一応歴史の流れからいいますと、白秋とか室生犀星たちが非常に美しい叙情詩を書いた時代に、暁烏敏はもう止むに止まれぬ燃える胸の火をこんなふうに書いています。こういう詩はちょっと官能性が高く、体がうずいてくるような詩ですね。暁烏敏も44~45歳の肉体に触れればもう火照って、風邪じゃないのに37度くらいになっているんじゃないかと思うような火照り方をしている詩なんですよ。だからこれを技術の面かから見るともうちょっと省略した方がいいんじゃないのとか、もうちょっと捻ったらもっと詩が高まるのにという批評がありうるでしょうけれども、そんなことをしたら、これ削っちゃったら詩がバラバラになってしまいます。恐らくこれは日記帳にもう訂正なしにずら-っと書いていかれたと思います。
もう胸の燃えるままに言葉が出てきているんですね。でもその割に無駄がないですね、この詩は。こういう詩が書かれている時代に北原白秋が人妻に恋をして姦通罪というので留置場に入れられた後書いた詩があります。これとちょっと比較していただきたいんですが。これは「野晒」という詩でなんですね。
死なむとすればいよいよに
いのち恋しくなりにけり
身を野晒になしはてて
まことの涙いまぞ知る
人妻ゆえにひとのみち
汚しはてたるわれなれば
とめてとまらぬ煩悩の
罪のやみぢにふみまよふ。
やっぱりこちらの方が詩として格調がありますね。やっぱりさすが白秋です。あれだけ西洋かぶれのような詩を書いて、「邪宗門秘曲」という、横文字を入れたり、ラテン語を入れたりした洒落た詩を書いた人も命にかかわるような恋をし、世間の非難を真っ向から浴びて立ち往生し、それで家が傾いて柳川の実家をも売り払い、三浦岬の海岸で漁業をやるんですよ。漁業というのはまあ海産物の売買ですが、そんなことをして、それもうまくいかないんですね。その人妻と結局一緒に結婚をしたけれども、家庭でうまくいかない。彼女は結核になる、そしてその人も去っていく。次の女性が出てくるちょうどその合間のところで懺悔の詩をこのように書いています。「とめてとまらぬ煩悩の/罪のやみぢにふみまよふ」というのは、暁烏敏のこの『生くる日』の詩とテーマとしてはそっくり重なっていますね。つまり恋をし、愛に悶えている自分の罪の意識、白秋も同じようにその罪の意識をこのように簡潔な表現で表しています。暁烏はこれを流れるごとく書いてしまった。これを二つ詩として並べて評価してみると、やっぱり暁烏が負けるわけです。暁烏としては自分は詩人じゃないんだよ、詩人じゃないからそんな詩の比べ、力量比べなんかしないでほしいと言われるかもしれませんが、作品として出来上がったらもう自分の目を離れて客観的に独り立ち、一人歩きするわけですね。
だから私たちは今、相当時間の彼方で書かれたものですけれども、活字として残っている以上それをきちんと受け止めて批評する義務があると思うんですね。暁烏先生のいいわけというのがありまして、私はこのいいわけは全てに通用していると思います。『温かき大地』の中に入っています。
「わしは詩を作る/しかし、詩人ぢやない」もう言っているんですよ先に。「わしは歌を読む/しかし、歌人ぢやない/わしは俳句を作る/しかし、俳人ぢやない/わしは葬式をやる/しかし、坊主ぢやない」というのですね、これは困ったもんですね。「わしは講演をする/しかし、宗教家ぢやない/わしは字を書く/しかし、書家ぢやない/わしは畑を作る/しかし、百姓ぢやない。では、お前は何です/わしは何でもないのです/わしはわしなんです/わしは時に詩を作る/時に歌を詠む/時に俳句を作る/時に葬式をする/時に字をかく/時に論文も書く/時に講演もやる/わしがそれをやるのだ/しかし、それをやるわしぢやないのだ」
これ非常に詭弁みたいにも思われますが、ある意味では才がありすぎてる人間が、その幹から枝が出てくるように表現をしていた人間はこうでも言わない限り自己主張が出来なかったのかも知れません。「わしは詩人だよ。かつて詩を書いたが、あまり誉めてくれなかったな。困ったもんじゃ。」とは言わないが、あんなのはと忘れているようにしてある。でも『生くる日』を書き、『温かき大地』を書いていくとその関連している部分、受け継がれている部分、断ち切れてる部分というのが見えてくるわけです。そういう比較、検討というのもまだ暁烏敏の場合に一つ残されていたなというのが私の思いでありました。少し詩人の側から語りすぎたかと思いますが、私としては文学者として暁烏敏と一番縁が深かったのじゃないかなと自分でも自負している人間としては、私に出来ることはこういうことだったというその一つをご披露しながら講演を終わりにしたいと思います。皆さんどうもありがとうございました。
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