暁烏文庫の沿革


暁烏文庫の沿革

『仏教関係図書目録』出版に当たりて

橋 本 芳 契       

 


 

目 次

1. 師範昇格と国書拡充
2. 暁烏文庫設立委員会の発足
   暁烏文庫設立趣意書
3. 暁烏文庫と社会教育
   香草文庫を師範学校に寄贈するについて(暁烏敏)
4. 暁烏文庫と仏教書


暁烏文庫の成立とその意義

1. 師範昇格と図書拡充

 戦後の日本には,学問を尊重し,教育を充足することにより「文化国家」として再出発しょうとする最も喜ばしい機運が急速に起った。これがため,ことに教育界ではいわゆる六・三制の新態勢に切替えるために,旧師範学校は,新制大学における「学芸学部」もしくは「教育学部」として昇格統合されることとなり,石川県では80年の歴史をもつ石川師範学校が母胎となり,新制金沢大学に教育学部が置かれることになった。一方,戦時中に出来た金沢高等師範学校は,事実上,金沢大学の法文・理・教育の3学部に発展的に解消し,また石川青年師範学校も教育学部に吸収されたと考えてよい。さて,これら師範系諸学校では新制への準備のため,施設拡充または整備に競って努めたが,何分にも敗戦直後とて,理科教具ひとつ満足に入手できるものでなかった。そこで金沢高師と石川師範とは,それぞれ金沢市の近郊石川郡松任町北安田明達寺に蔵する図書(約5万5,000冊)に着目したのであった。これに対し同寺住職暁烏敏師は,多年苦辛して蒐集した内外の良書――師はこれを「香草文庫」と自称し,曾てこれを中心に「大日本文教研究院」の設立・運営を図ったことがあり,極めて愛蔵して来たものであるが,いま学問と教育のためならば,喜んでこれら一切を,しかも無償で寄贈するであろうと答えた。ただ師からは,これら大部の書物を収納する書庫があろうかと尋ねられた。高師は旧兵舎を校舎にしていたので構内の火薬庫をこれに当てると答え,師範は小書庫を新築してこれを迎えると意志表明をした。高師,師範何れとも確定せぬうち,塩野直道高師校長の退職等の事情もあって,石川師範が一手で香草文庫を貰い受けることになった。昭和22年6月のことである。
(註)後掲暁烏師の寄贈文および「石川新聞」記事(昭和22年7月5日)等参照。


2.暁烏文庫設立委員会の発足

 石川師範では清水暁昇校長を中心に,師範同窓会,石川県教育界,また石川県仏教界に呼びかけ,内外から寄せられる醵金をもとにして,香草文庫を受容する新書庫を設立しようと策し,且これを実行にうつした。次に掲げるのは当時配布した「設立趣意書」である。

暁 鳥 文 庫 設 立 趣 意 書

 日本再建の根底は学問,教育及び文化の振興にあることは申すまでもありません。この四月から発足した六・三制は国民生活の民主的改造を企図するものでありまして,新教育は学校教育と共に社会教育を重要視し,これがため各種図書館,博物館等の必要が叫ばれて居ります。然しながら現下の日本にとって新たにこの種の施設を整備しようとすることは容易なことではありません。従ってそれだけその困難を冒してこの事業を遂行し,真に地方文化の再興を図ることは極めて意義あるものと信ずるのであります。
 然るにこの程,我国宗教界の偉人として全国に教化の徳を布かれた暁烏敏先生が,多年に亘ってその浄財を投じて蒐集せられた5万冊に上る大蔵書を,後学の為,挙げて石川師範学校に寄贈の内意を示されたのであります。この蔵書は仏教,基督教等の宗教書を初めとして,哲学,文学,歴史,地理,法律,経済,社会,道徳,教育,美術,音楽,自然科学等殆んど学問の全分野にわたる各種書籍を網羅しており,曾ては先生がこれを内容とする大図書館を建築し,それを中心とする日本文教院の設立を企てられたほどの,今日に於ては洵に得がたき貴重なる文献であります。
 われ等は先生の崇高なる精神に感激しその鴻志に報いんがため,茲に左記の如き暁烏文庫を設立し教育家,宗教家並に一般有志に公開して学術研究と地方文化の啓発向上に資し併せて学芸の府たるの実を具え以て時代の要請にそわしめんとするものであります。
 冀くは大方の諸士,明倫の伝統に輝く文化石川に於ける研修の道場として暁烏文庫を中心とする一大研究機関実現のために,深き理解と厚き同情とを寄せられて何分の御協力御援助あらんことを衷心お願いする次第であります。
     昭和22年8月1日
        暁鳥文庫設立委員会
           石川師範学校長/石川師範学校同窓会長

清 水  暁 昇

           石川県教育会長
染 村  亀 鶴

           石川県仏教会長
曄 道  文 芸

 すなわち,①明達寺所蔵の香草文庫を新たに「暁烏文庫」(あけがらすぶんこ)の名称のもとに受容・設立する。②新築書庫は金沢市弥生町の石川師範男子部構内で,5間に7間(35坪)の石造二階建てとし,他に木造の閲覧室や,ホールも建てる事とする。③これに要する経費約550万円は,広く募集する事にし,そして④設立委員会の代表者には清水校長(師範同窓会長を兼ねた),染村亀鶴石川県教育会長,曄道文芸石川県仏教会長の三人がなった。
 昭和22年の秋から,23年にかけて師範の全教職員は,自らは俸給一ヶ月分を暁烏文庫のため醵出すると共に,広く全県下に手分けして募金に尽した。当時女子部長の幸田清喜教授や,のち中央図書館事務長に就任した故見本精氏らは,石川師範同窓でもあったから卒先募金運動に全力を傾けた。しかし,総額70余万円にしか達しなかった。したがって当初の規模を改め,男子部付属小学校前庭の位置に木造モルタール塗り二階の書庫を昭和23年暮れに竣工しただけで満足するのほかなかった。そのうち,教育学部が金沢城内移転にきまり,暁烏文庫は「三十間長屋」の階上,階下に収蔵されることとなり,文部省経費約200万円でこれに現在の閲覧室・事務室等を建て「中央図書館」として新築,竣工したのが昭和24年のことであった。そして,階上の一室は暁烏師来館の折の休憩室に当てられ,同時に月毎の同師を講師とする仏教集会の会場にもなっていた。


3.暁烏文庫と社会教育

 昭和25年4月29日,暁烏文庫は正式に明達寺暁烏敏個人所有のものから金沢大学(学長戸田正三)のものに移しかえられた。それは,旧石川師範が,昭和24年4月,金沢大学教育学部への解消をとげていたからである。清水校長は引続き初代教育学部長に就任したが,暁烏文庫の完全な実現を見て,わが任終れりとし,同年10月10日付退官した。4月29日という日は,戸田学長の提案で,昭利26年以降「暁烏記念日」として式事,祝賀行事が例年行われることとなって現在に至っている。行事中,代表的なものは記念論文募集であるが,これには昭和26年度に東京大学大学院学生(現北海道大学助教授)藤田宏達氏の「中古天台の研究」が第1回受賞をしたのをはじめ数十点のものが現在までに入賞表彰されてきた。これらの応募論文は暁烏文庫が保存している。しかるに,暁烏師の素意は,暁烏文庫を社会教育のため開放することにあったから,金沢大学に同文庫が開設されると同時に,病院長松尾宝作氏を主班とした「暁烏文庫社会教育協力会」が出来,主として財政経費の面で暁烏文庫を背景とする各種の社会教育活動を援助したのであったが,これによって戦後思想の混乱期に「古典講座」「仏教講座」その他の社会教育活動を通じて,暁烏文庫がどの位世間を稗益したか計り知れないのである。「協力会」はその後,概ねその任を果して解散し,5年前に新発足した「社会教育研究室」が今では実質的に暁烏師の精神を継承し,盛んに活躍している。次に旧稿に属するが,同師の香草文庫を手離した時の言葉を掲げよう。

香草文庫を師範学校に寄贈するについて
暁   鳥    敏

 私は学問のために書物をよせたというよりも,何かしら書物がすきで書物を買ひあつめたという方がよいようです。中学の二,三年のころから書物を買うことにうき身をやつしてきたものです。京都の学生時代には洋服は巡査のお古を買うて着たり,間借をして一日四合の米でしつそな自炊をして書物を買いためた。洋行中にも,ホテルの夕飯はたいていミルクホールで間に合はせて好きな本を買いあつめたものです。それがいつのまにか四,五万冊くらいになつているようです。
 私はせまい範囲をこつこつ深く探究してゆくという方ではなくて,広く世界の知識にふれてゆきたいという傾向をもつていますから,蔵書の範囲も相当に多角的です。仏教の学問が中心となつているだけ,仏書は全体の三分の一をしめております。これを一冊ほり出したというものではなくて仏教の全体に亘つて一通り学問が出来るようにとゝのうています。仏教の書物についでは万葉と古事記,書紀の研究書は財を惜しまずに集めたつもりです。それにちなんで維新前後の勤皇家,たとえば宣長や松陰という人達に関する著作はたいていあつまつています。それから明治以後の哲学書や文学書も相当集めました。西洋の書物では,ギリシヤに関するものをはじめ,近代のドイツ,フランス,ロシア,イギリス,アメリカなどの哲学や文芸の書物は原書と訳書とで一・ハりはそろつています。私の蔵書として人が意外に思うだろうと思はれるのは,社会科学の書物の多いことです。又自然科学に関するものも少しはあります。西洋の旅行中は美術書や考古学の文献など多く集めてきました。それらの中には今日得がたいものも少くありません。
 書物を集めてみると,この集まつた書物を誰かに利用してもらいたい気が一杯になつています。それで先年大日本文教研究院を設立して,好学の士をむかえて各方面の研究に従事するつもりで,すでに研究者のための宿泊寮も出来ており,書庫の設計も出来ているのだが,敗戦後の今日においては一私人として数百万の資材を募集して書庫をたてる労力は老齢になつた私としては煩にたえないし,寮には引揚者が十九家族も入りこんでいて,おいそれと出てゆかれそうにも思えない。その中に書物の置場にもこまり,管理がゆきとゞかないといつのまにやら紛失してゆくのでこまつていました。今年の春高師の校長塩野君と師範の校長清水君とがこられて,晩饗をともにしながら高師と師範が合同して学芸大学となつたら二,三千冊寺に残し置く書物の外は,私の文庫としてこれをもろうて下さるようなら寄贈してもよいと話しておりました。その中塩野君が追放になられて高師の方はどうなるのかわからない。師範の方が学芸大学になるのに蔵書が必要であるというのと,清水君が学生時代から親しくしている関係上師範の方にもろうていたゞくようになりました。私の食はず飲まずに買いあつめた蔵書ですから,それを保管し利用することに相当に力をそゝいでいたゞきたいという希望もあります。私は大正4年まで東京にいて雑誌を出していたのであるが,その後は郷里に居を定めて雑誌も出し著書も発行し,郷里を中心として全日本に,あるいは全世界に仏教によつて養はれた教化の宣伝につとめている関係上,郷里の教育に従事する人達によつて利用せられることが最も好ましいので,石川師範の図書の一部に私の香草文庫が設立せられることをよろこんでいる次第です。勿論仏教の研究に従事する人達には,特別にその便利をはかつていたゞくことはおやくそくしてあるのです。師範の方で私の蔵書をむかえるためにいろいろお骨折下さることをきいて恐縮もし又感謝もしている次第であります。

(22・9・5)

4.暁烏文庫と仏教書

 暁烏文庫は,仏教人暁烏敏によつて蒐集されたものでありながら,決して仏教書だけに偏するものでない。それはもともと一個人の蔵書でありながら,高き水準と広き識見とによつて選択された秀れたライブラリーである。そのことは,ひとたびこの書庫に入つた者の誰しもがひとしく感ずる所である。しかしながら,何としても「全体の三分の一をしめる」と師自身によつて指摘されたこの文庫における仏教書の重味は,やはり本文庫の一大特色でなければならない。大学の内外でも早くより,暁烏文庫所蔵本の全リスト,ことに仏教書のリストの公開が望まれていた。しかし,図書整理上は仏書だけ別扱いというわけには到底いかない。そこで,司書係長藤井信英氏の許に於て,香草文庫時代から蔵書の整理に当り,金沢大学の司書となつても引続き文庫整理に尽した事務員市川三郎氏の経験をもととし,竹沢陸氏が自ら進んで難事たる仏教書の整理に当り,7年の歳月を費やして一応の整理を見事に終えられた。その労と功は,極めて多大なりとしなければならぬ。仏教書の分類法については,図書館から橋本が相談を受けたので,暁烏師の考へを基とし西村見暁(前金沢大学助教授)出雲路暢良(現教育学部助手)両氏の意見を徴し,能う限り検出と閲覧に都合のよい案を具して応えたものが基本になつている。識者の猛評を恐れるものであるが,責任の所在は明白にして置きたい。目録巻頭の「暁烏文庫の由来」で一切は尽きるわけであつたが,多年待望の「暁烏文庫」仏教書の全リストいままさに成るに当り,私の知れる限りその成立経過と,意義・特色の一端とに触れ,本リストの活用により,さらに本文庫の利用が盛んになることを心からこいねがうものである。神保,小原,増井三代の館長の宿願が今こゝに実現し,既に物故された暁烏,戸田,清水諸先生も亦,安養界に於てこれを深きよろこびとしていられるであろう。而して清水先生の遺志は徳光,翠川,三由三代の教育学部長に嗣がれ,今日に及んでいる。

昭和38年3月21日               

金沢大学法文学部助教授
暁 烏 文 庫 委 員
文  学  博  士

橋  本  芳  契

 


(出版にあたり)本文はもと,『暁烏文庫仏教関係図書目録』のはじめにのせらるべく三月中に金沢大学中央図書館からの依頼で執筆したものであるがご都合により印刷に付されなかった。その後,多数の方々の熱心な意見として,最少限この程度のものは文庫の沿革記とし将来に向けかならず残さるべきものであるということであり,自らにも関係者の一人として微衷を表明したい気持があつたので,約半歳を経た今日ながら,しかも原文のままながらこれを出すことにした。不備の点は切にご諒恕を願いたい。

(38・9・30橋本)