第56回金沢大学暁烏記念式・記念講演「自由の精神」
- 2005年04月28日
- 中央図書館
日時:平成17年4月29日(金・祝日)14:00~ 16:00
◎記念式 14:00~ ◎記念講演 14:30~ ◎場 所 金沢大学サテライト・プラザ(金沢市西町教育研修館内) 金沢市西町3-16 / TEL 076-232-5343地図 ◎記念講演(「市民大学院」開講記念講演) 「自由の精神-西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ」 講師: 竹村牧男氏(東洋大学教授) 当日の配布資料 [docファイル] 自由の精神(要旨) 自由の精神(資料) | |
【記念講演講師紹介】
■略歴
東京大学文学部印度哲学科卒業,東京大学大学院人文科学研究科印度哲学専修過程博士課程中退。東京大学文学部助手,文化庁文化部宗務課専門職員,三重大学人文学部助教授,筑波大学助教授 哲学・思想学系,同教授を経て, 2002年4月から東洋大学文学部教授。 この間、高野山大学、日本大学、成城大学、北海道大学、東京大学の非常勤講師を勤める。
1986年日本宗教学会賞受賞 『大乗起信論読釈』山喜房仏書林、1985年
1993年7月 『唯識思想論攷―三性説の哲学的究明』により、博士(文学)〔東京大学〕
■主要業績
(著書)
『大乗起信論読釈』 山喜房仏書林、昭和60年10月
『唯識の探求』 春秋社、平成4年4月
『唯識三性説の研究』 春秋社、平成7年2月
『良寛『法華讃』評釈』 春秋社、平成9年8月
『親鸞と一遍』 法蔵館、平成11年8月
『唯識のこころ』 春秋社、平成13年6月
『ブッダの宇宙を語る―華厳思想』(上) NHK出版、平成14年4月
『ブッダの宇宙を語る―華厳の思想』(下) NHK出版、平成14年10月
『西田幾多郎と仏教』 大東出版社、平成14年11月
『禅の哲学』 沖積社、平成14年7月
(論文)
「唯識系の仏教」(『仏教の東漸 東アジアの仏教思想Ⅰ』、春秋社、平成9年2月)
「「逆対応」の宗教哲学―西田幾多郎における「絶対者」と「自己」」(『哲学・思想論集』〈筑波大学哲学・思想学系紀要〉第23号、平成10年3月
「華厳思想と即身成仏」(『智山学報』第48輯、平成11年3月)
「「平常底」の宗教哲学―宗教と自由と歴史の地平」(『宗教哲学研究』第18号、京都宗教哲学会、平成13年3月)
「道元の思想―その基本にあるもの」(『道元の世界―現代に問いかける禅』、日本放送出版協会、平成13年6月)
「道元の修証論」(今井雅晴編『中世仏教の展開とその基盤』大蔵出版、平成14年7月)
「華厳思想のキーワード」(『大法輪』平成14年10月号)
「良寛さまの法華経1」(『在家仏教』平成14年11月号)
「良寛さまの法華経2」(『在家仏教』平成14年12月号)
「縁起と個物」(『大乗禅』平成14年11月号)
(テレビ出演)
竹村牧男 「NHK心の時代~宗教・人生 ブッダの宇宙観を語る」 教育テレビ、第三日曜日5:00~(再放送・第四日曜14:00~)
■所属学会
日本印度学仏教学会理事
仏教思想学会理事
日本宗教学会評議員/『宗教研究』編集委員
比較思想学会理事
東方学会
■研究活動
(専攻領域・最近の研究テーマ)
日本仏教(これまで唯識を中心に研究してきたが、東洋大学に田村晃祐教授の後任として赴任後、主に日本仏教がテーマ。)
禅と浄土、華厳思想、西田哲学と仏教等
○ 平成15年度特別展「加賀の三たろう展」
鈴木大拙(鈴木貞太郎)、藤岡東圃(作太郎)、西田幾多郎 四高の同級生
平成15年6月15日に、記念講演として『大拙と西田の世界的意義について』をテーマに講演。
この協賛事業として石川県西田幾多郎哲学記念館1周年記念特別講演会において
平成15年5月25日に、『西田幾多郎と鈴木大拙』をテーマに講演。
[暁烏記念式とは]
石川県松任市出身で、明治・大正・昭和の思想界・宗教界に大きな影響を与えた暁烏敏(あけがらす・はや)師が、個人蔵書としては類を見ない広範な学問分野の書籍約5万冊を、金沢大学に寄贈されたことを記念し、師の遺徳を偲ぶ行事として、毎年挙行されている。今年は53回目を迎えた。
[暁烏 敏について]
暁烏敏(1877~1954)は,松任市の明達寺に生まれた真宗大谷派の僧である。明治時代は,宗門の禁書であった『歎異抄』を始めて世に広め,仏教の近代化に尽くした清沢満之の信仰をつたえ,仏教雑誌『精神界』に執筆編集した。
大正時代には,自己の性欲の懊悩の中から,独立者としての人間の解放を課題とし,年の三分の二は全国を行脚して信徒たちに語った。昭和時代前期には,世界の宗教と哲学と文学とを渉猟し,自らも世界を旅し,「浄土」としての国家の在り方を求めた。
晩年は全くの盲目となり,鑑真にも似た風貌には,人間の深い精神性が体現されている。昭和25年,青年時代から集めた5万冊余の書籍を「暁烏文庫」として金沢大学に寄贈した。(松田章一記)
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第56回金沢大学暁烏記念式・記念講演配布資料
自由の精神-西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ
講師:竹村牧男氏(東洋大学教授)
(要旨)
一 暁烏敏と西田・大拙
暁烏敏の日記の、明治三六年一一月一四日の記事に、「三々塾に行く。……西田幾多郎、石川と初対面」とある。しかし、暁烏敏「西田幾多郎氏の追憶」には、「私が西田さんと初めて逢うたのは、明治三十四五年の頃であつたと思ふ」と記しており、三々塾のことなどが記されている。それは、あながち間違いのようにも思えない。暁烏敏は、その文の最後に、「最後に西田さんに逢つたのは昭和十五年の三月であつた。氏の鎌倉のお宅を訪ねた時、私の顔を見るなり、盛に話しかけられた。その時に随行してゐた学生が、西田先生のこんなに機嫌の好い顔を見たことがないと言つた」等と述べている。晩年の西田は、暁烏敏と、心を通い合わせていたと思われる。西田・大拙と、東本願寺系の主だった人とは、緊密な交際を果たしたのであった。
二 西田・大拙の青年時代と自由
西田は、当時武断的になってきた第四高等中学校を退学してしまう。そのことについて、西田は「かかる不満な学校をやめても、独学でやつて行ける、何事も独立独行で途を開いて行くと云ふ考であつた。憲法発布式の日に、我々数人で頂天立地自由人といふ文字を掲げて、写真をとつたこともあつた」と述べている。(「山本晁水君の思出」)
一方、大拙は、語学の勉強から「自由」ということを学び、自由へのあこがれを強めて行った。エマソンの言葉に感激し、「これがセルフ・レライアンスだ、これが本当の自由だ。これが本当の独立不羈なるものだ。小さいと云つて自ら卑しめるに及ばぬ。……」と感激したのだという。(「明治の精神と自由」『東洋と西洋』)
これらの背景には、明治の初年から三〇年くらいまで続く、国家や個人等の各層における不羈独立への関心があった。西田と大拙の思索の根底には、こうした自由の追求が流れていた。
三 大拙思想における自由の思想
大拙は、西洋のフリーダムやリバティと、本来の自由とは異なるという。西洋のそれらは、「圧迫から離れるといふやうな意味で、そこに消極性をもつてをる」と指摘する。これに対し、本来の自由は、もともと『臨済録』等によく出る仏教語であり、それは、「自分から出てくるといふことであ」り、「おのづからそのものがそのものであるといふ、それをさして自由といふので」あるという。「そこに内面性があつて、圧迫から離れるといふことではなくして、積極性で、自然にそのものになる。柳は緑、花は紅、松は松、竹は竹といふことになる。その自然性といふものを含めて、自由といふことが出てくる」と説くのである。(『東洋の心』)
さらに大拙は、この自由は、空ということに裏づけられてのことだと説く。その点について、「四苦八苦の娑婆の真中へ飛び出て、堪へ難きに堪へ、忍び難きを忍び、刻苦精励して、人間のため、世界のため、何か大慈大悲底の仕事を行ずるのである。さうして行動は報いを求める行動でない、無目的の目的で働くのである。これを無功用行といふ。自由性の発動である。松はその松たる所以を自覚せず、竹はその竹たる所以を意識しないで、松になり、竹になつてゐるやうに、仏や菩薩は達磨の「無功徳」と「不識」とで、慈悲行三昧である。これを創造の生涯といふのである。詩の境涯である。一行三昧ともいふ。神通遊戯ともいふ。「水を汲み薪をはこぶ」の妙用ともいふのである。これはいづれも「空」の座にすわつてゐないとできないのである」と説明している。(『東洋的な見方』)こうして、菩薩の自由は、むしろ「願って悪趣におもむく」願生の菩薩の自由となるのである。
四 西田における自由の思想
一方、西田の哲学は、場所の哲学とよく言われるが、それは同時に個物の哲学であり、そこに、自由の追求の意味がある。西田には、西田独特の自由論があった。その考えは難解であるが、カントのただ実践理性にしたがうのみの自由ではなく、本能にも理性にも究極の拠り所を持たない無底にありつつ、現実世界の自他関係においてそのつど自己規定していくことといえそうである。西田の自由論は、西田独自の平常底の宗教哲学と緊密に結びついたものであった。
五 自由から自主へ 大拙の社会観
その西田の自由論を、ある意味で平易に解説したものが、大拙に見られる。それは、次のような言葉である。「私利私欲の人でも自主的に考へることは可能であるが、彼は自らの主人公にはまだなつて居ない。彼はいつも自利的な物の見方をして居る。自利的に物を見ると云ふことは、本能的に自らに使はれて居ると云ふことである。自分の主人公となる人は、自分を使ふことの出来る人である。自分を社会の一員として、自分の思惟と行為は社会的に環境的に働きかかるもの、また働きかけて共同生活に意義を持たすべきものと考へる人は、自利的な考へ方をなさないのである。自利自愛の心に自ら限定を加へ得る人でないと、自ら主人公となつたとは云はれぬ。……かうなると、自ら主人公となることは、他をしてまた他自らの主人公たらしめることでなくてはならぬ。これはどのやうな意味かと云ふに、自らを重んずるは他を重んずるものであると云ふことである。」(『自主的に考へる』)自己が本能的欲望に縛られることもなく、さらに他をして主人公たらしめるところに、自由のあり方が実際に現実化するのである。
結
効率主義・業績主義一辺倒の競争社会となり、多くの問題をかかえる現代社会において、自己の存在の意義を深く自覚しつつ、さらに自他のあるべき関係を創造していけるような主体の実現を、どのように展望していくかは、緊要の課題である。明治以来の近代化の中で、本質的な問題を考え続けた西田・大拙の思想に学ぶことは、きわめて大事なことであろう
序 私の金沢とのご縁
一 暁烏敏と西田・大拙
暁烏敏の日記の、明治三六年一一月一四日の記事に、「三々塾に行く。……西田幾多郎、石川と初対面」とある。しかし、暁烏敏「西田幾多郎氏の追憶」には、「私が西田さんと初めて逢うたのは、明治三十四五年の頃であつたと思ふ」と記しており、三々塾のことなどが記されている。あながち間違いのようにも思えない。
西田は清沢満之を深く尊敬しており、その門下とは密に交際した。
暁烏敏は、西田を大谷大学に世話しようとしたこともあったという。
西田は京都大学赴任後、佐々木月樵らと交流、当時移転設立の大谷大学の非常勤講師となった。その後、西田は佐々木月樵らにはかって、鈴木大拙を大谷大学に就任させた。
以後、西田と大拙と東本願寺系の学者等は、緊密な交流を持った。
暁烏敏は、前掲の文に、「西田さんが死なれてから大分たつが、今でも、にがりきつてゐて、しかもやさしい笑ひのある西田さんの顔が時々私の眼前に見える。私の前にある西田さんはなつかしい人であつて、なんとなく敬意の払はれる人である。それは西田さんが明るい智慧の持主であつて、暖い慈悲の持主であることを証明してゐると思ふ」と述べ、さらに、「最後に西田さんに逢つたのは昭和十五年の三月であつた。氏の鎌倉のお宅を訪ねた時、私の顔を見るなり、盛に話しかけられた。その時に随行してゐた学生が、西田先生のこんなに機嫌の好い顔を見たことがないと言つた。その時の話の中に、近衛は頭はよいが力が無くて困る、と言うておられた。又、この頃鈴木君から「円覚経」の講義を聞いてをるが仲々面白いというてをられたことも覚えてをる。この時、鎌倉に墓所を決めたいといふ事も話してをられた。近いうちに又お訪ねしたいと思うてゐたが、この会合がこの世でのお別れになつた。さうして今は全集によつて同氏の深い信念にふれるより外はないことになつた」と述べて、その文を結んでいる。
二 西田・大拙の人柄について
大拙は、昭和一七年、名古屋の信道会館の機関誌『信道』に寄稿したものをまとめて『文化と宗教』として刊行する。これに西田は序文を贈る。それは、「大拙君は高い山が雲の上へ顔を出しているような人である。そこから世間を眺めて居る、否、自分自身をも眺めて居るのである。全く何もない所から、物事を見て居る様な人である」と始まっている。続いて、「その云ふ所が、時に奇抜な様に聞えることがあつても、それは君の自然から流れ出るのである。君には何等の作意と云ふものはない。その考へる所が、あまりに冷静と思はれることがあつても、その底には、深い人間愛の涙を湛へて居るのである。一見、寒山子を思はしめる如き君の風貌の内には、碧潭水清うして、千状万態の世相、細やかに映さざる所がない。君は外見に似ず、固、繊細の感覚を有つた人であると思ふ。……」とも記されている。
一方、大拙は『文化と宗教』を昭和二三年に再刊するにあたって、「わが友西田幾多郎」を収録した。それには、「彼を一言で評すると「誠実」でつきる。彼には詐りとか飾りとかいふものは不思議になかった。自分等は人前へ出ると何かにつけ本来の自己の上に何かを附け加へたがるものである。が、西田君はどこへ出しても同じ人間であった、余計に見せようともしなければ、割引しても出さなかった。田舎老爺のやうな素朴な姿で――内外ともに――そのままであった」と記し、最後に「何だか淋しくてならぬ」と結んでいる。
三 西田・大拙の青年時代と自由
専門学校と云ふのは、右に云つた様な学校であつたが、それが第四高等中学となつてから、校風が一変した。つまり一地方の家族的な学校から天下の学校となつたのである。当時の文部大臣は森有礼といふ薩摩人であつて、金沢に薩摩隼人の教育を注入すると云ふので、初代校長として鹿児島の県会議長をしてゐた柏田といふ人をよこした。その校長について来た幹事とか舎監とかいふのは、皆薩摩人で警察官などしてゐた人々であつた。師弟の間に親しみのあつた暖な学校から、忽ち規則づくめな武断的な学校に変じた。我々は学問文芸にあこがれ、極めて進歩的な思想を抱いていたのであるが、学校ではさういふ方向が喜ばれなかつた。その上、当時の我々から見ても学力の十分でない先生などあつて、衝突することも多かつたので、学校を不満に思ふ様になつた。特に山本君は何事にも独自の見解を有し人に屈せなかつた人故、学校が面白くなくなつた。さういふ訳で山本君が先づ学校をやめた。そして私も之に次いでやめた。私は当時山本君の驥尾に附していた。我々が学校から出された様に伝へる人もあるが、それは間違いである。青年気を負ふとでも云ふべきか、当時の我々の意気は盛んなものであつた。かかる不満な学校をやめても、独学でやつて行ける、何事も独立独行で途を開いて行くと云ふ考であつた。憲法発布式の日に、我々数人で頂天立地自由人といふ文字を掲げて、写真をとつたこともあつた。(「山本晁水君の思出」『全集』十二・二四七~八頁)
語学の勉強からどんな新鮮なものを取り得たかと今考へて見ると、「自由」と云ふことであつたらしい。当時には何も意識してはゐなかつたのであるが、どうも其頃から何かにつけ、社会的に政治的に慣習的に加へられていた各種各様の圧迫に対して、無意識に反抗の念が押へられなかつたやうである。それから生活の方面においても余裕がなかつたので、金持などに対する反感もあつた。下らぬと思ふ人間がやたらに時に得顔に跳梁するのにも不平はあつた。そのやうなところから、セルフ・ヘルプの精神が強く、自由へのあこがれが深くなつて行つたのは自然であらう。児供の時代に、ミルの『自由之理』や『代議政体』などを、わからぬながらに読み覚えたのも、自分をして西洋文化をアプリシエトせしめる階梯となつたものであらう。
其後エマスンの論文集を何かの機会で読んだ。これがまた自分をして新たな思想に赴かしめた。その中に次の言葉があつたやうに今うろ覚えに覚えている。
「自分の心に動くことを表現するに躊躇するな。大人物と云はれてゐる人でも、自分の心の中に在るもの以上に、何ものをも持つて居るのではない。今ここに〔窓の隙から〕一條の光明が射し込んで来て、自分の頭の上に落ちたとせよ。如何に微かでも此光の証人は自分だけの外に誰もないのだ。これを天下に宣言するに誰を憚ることもいらぬ。」
と。このやうなことがあつたやうに覚えてゐる。自分はこれを読んだ時、深く感動した。これがセルフ・レライアンスだ、これが本当の自由だ。これが本当の独立不羈なるものだ。小さいと云つて自ら卑しめるに及ばぬ。小さいは小さいながらに、大は大ながらに、その持つてゐるすべてを表現すればよいのだ、これがシンセリティだと――かう云ふ風に自分は感激したのだ。(「明治の精神と自由」『東洋と西洋』『全集』二十一巻、二一三~四頁)
○明治の時代 独立不羈の精神 自由民権運動
四 大拙思想における自由の思想
それからもう一つ、この自由といふ言葉です。明治の初めか、もう少し前ごろに、ジョン・スチュワート・ミルといふイギリスの人が書いた、『自由論』(“On Liberty”)といふ書物があるのです。この書物を訳する時に、リバティとかフリーダム(freedom)といふ語をどう訳したらいいかといふ時、日本にそれに相当する語がなかった。それで、いろいろ、そのころの人は考へたものに相違ないが、どうしてもみつからないから、仏教の中から、自由といふ言葉を取った。これは仏教の言葉です。『臨済録』でもごらんになれば、自由といふ言葉はいくらでも出てくる。自主・自由といふ自由ですね。この自由といふことは、自分から出てくるといふことである。西洋のリバティとか、フリーダムといふ言葉は、圧迫から離れるといふやうな意味で、そこに消極性をもつてをる。多くの人は知らずにをるだらうが、「自由」といふ言葉は、圧迫性から解放されるといふ意味の自由ではなくして、おのづからそのものがそのものであるといふ、それをさして自由といふのです。そこに内面性があつて、圧迫から離れるといふことではなくして、積極性で、自然にそのものになる。柳は緑、花は紅、松は松、竹は竹といふことになる。その自然性といふものを含めて、自由といふことが出てくる。それから、近頃西洋の言葉のネイチュア(nature)といふ文字を自然と訳してをるけれども、ネイチュアも自然といふ訳は当たらない。東洋の自然といふのは、ものをそのものたらしめる、仏教でいふ、真如、如如性ですね。(『東洋の心』『全集』二十巻、四四頁)
〈参考〉『臨済録』の自由
師、衆に示して云く、「今時、仏法を学する者は、且らく真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解を得ば、生死に染まず、去住自由なり。
?、若し生死去住、脱著自由ならんことを欲得せば、即今聴法する底の人の、無形無相、無根無本にして、活撥撥地なることを識取せよ。
若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん。
自由はその字のごとく、「自」が主になつてゐる。抑圧も牽制もなにもない。「自(みづか)ら」または「自(おのづか)ら」出てくるので、他から手の出しやうもないとの義である。自由には元来政治的意義は少しもない。天地自然の原理そのものが、他から何らの指摘もなく、制裁もなく、自ら出るままの働き、これを自由といふのである。
つまり神が当初に「光あれ」と云つたといふが、このはたらきは、神そのものの本来の自性から出たもので、いはゆる已むに已まれぬやまとごころなどといふときの消息である。これを自由といふのだ。元来は仏教の言葉で、仏典特に禅録には到るところに見える。「自由の分あり」とか「自由の人あり」などといふのは、禅者の口にするところである。ものがその本来の性分から湧き出るのを自由といふ。神の創造はこの意味で自由のはたらきである。自由は妙用である。この妙用がわかるとき、自由の真義がわかる。リバティやフリーダム(大拙に拠れば、それは消極性をもつた、束縛または牽制から解放せられるの義だけのもの。竹村注)の中からは、創造の世界は出てこない。キ教神学の悩みは、ここから始まる。(『東洋的な見方』『全集』二十巻、二三〇~一頁)
自由の本質とは何か。これをきはめて卑近な例で云へば、松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由といふのである。これを必然性だといひ、さうんらなくてはならぬのだといふのが、普通の人々および科学者などの考へ方だらうが、これは、物の有限性、あるいはこれをいはゆる客観的などいふ観点から見て、さういふので、その物自体、すなはちその本性なるものから観ると、その自由性で自主的にさうなるので、何も他から牽制を受けることはないのである。これを天上天下唯我独尊ともいふが、松は松として、竹は竹として、山は山として、河は河として、その拘束のなきところを、自分が主人となつて、動くのであるから、これが自由である。必然とか必至とか、さうなければならぬといふが、他から見ての話で、その物自体には当てはまらぬのである。
禅語に「大用現前、軌則を存ぜず」といふ語がある。その通りで、規則とか法則とか理法とか原則とか何とか、そのほかいろいろの名称があるが、いづれも、物自体に触れた言葉ではないのである。大用といふのは、物自体がその自体のごとくに作用し行動する意味である。松が竹にならぬといふのは、人間の判断で、松からいへば、いらぬお世話である。松は人間の規則や原理で生きてゐるのではない。かういふのを自由といふのである。
……
人間としての自由は、木石などの自由と違ふ、また極楽や天界の住民のとも違ふ。仏は涅槃に入るのをやめて、菩薩のままこの娑婆界に生死するといふ。涅槃に入ったり、天界に生まれたりしては、人間の自由はない。人間は煩悩に責められる娑婆にながらへて、「不自由」のなかに、自由自立のはたらきをしたいのだ。ここに人間の価値がある。人間は積極的肯定の上に卓つてゐる存在である。
……
しかし今はこのことに触れずに、自由のはたらきは空の場所ではじめて可能であることを一言しておきたい。『法華経』の何品だつたか忘れたが、次の言葉がある。
「仏は慈悲の室に居て、無限の忍辱と精進とを着物にして、空の座にすわつている」
と。仏はただじつと坐つてゐるのでない。「慈悲」の部屋で、「空」の座蒲団の上に、「忍辱」すなはち堪忍と屈辱の衣を着け、それに精進の(仕事を一所懸命にする)袴をはいて、行儀よく、永遠に端坐して動かぬといふのではない。慈悲は行動の原理であるから、けつして人をして閑坐せしめることはない。四苦八苦の娑婆の真中へ飛び出て、堪へ難きに堪へ、忍び難きを忍び、刻苦精励して、人間のため、世界のため、何か大慈大悲底の仕事を行ずるのである。さうして行動は報いを求める行動でない、無目的の目的で働くのである。これを無功用行といふ。自由性の発動である。松はその松たる所以を自覚せず、竹はその竹たる所以を意識しないで、松になり、竹になつてゐるやうに、仏や菩薩は達磨の「無功徳」と「不識」とで、慈悲行三昧である。これを創造の生涯といふのである。詩の境涯である。一行三昧ともいふ。神通遊戯ともいふ。「水を汲み薪をはこぶ」の妙用ともいふのである。これはいづれも「空」の座にすわつてゐないとできないのである。さうしないと、精進も忍辱も無限の時間に動くわけにいかないのである。無縁の慈悲である。不請の友人である。「無」とか「不」とかの否定句を使ふので、消極性をもつてゐるかのやうに想像せられるかも知れない。ここに仏教や東洋思想の誤解せられる難点がある。真実は消極が積極で、否定が肯定である。これを「絶対矛盾の自己同一」といふのである。否定そのものを肯定にするはたらき、ここに東洋的なるものの神髄に触れることが可能になる。西田君の論理は実にこれを道破して遺憾なしである。「Aは非Aだから、それ故にAである」といふところまで徹底しなくては、仏教およびその他の東洋的なるものの深処に手を著けるわけには行かないのである。……(『東洋的な見方』『全集』二十巻、二三二~五頁)
今日の世界思想を、経済面から見て、共産主義と資本主義との二つに分けて、両者間の軋轢を云々するのであるが、その実は自由の圧迫と自由の護持との闘争である。経済的面もあることはあるが、その実は精神的自由――自分は霊性的自由と云ふが――、これが欠けているので、自由の意味が十分に解せられぬ。これが解せられぬと、政治的に平等観と自由観と一見相反する如き概念を実際生活の上に具現させることが出来ぬ。共産主義(平等観)でも資本主義(差別・自由主義)でも、根本の問題は精神的自由主義にあるのだ。これが確立されないところでは、経済生活の塩梅だけで、人間生活の全面を規制するわけには行かない。
要するに、東洋でも西洋でも、政治の機構は自由を主としたものでなくてはならぬ。さうして此自由の出処は霊性的自由である。後者がないところでは、如何なる自由と考へられる表現も本当のものではない、必ずどこかで破綻を生ずるにきまつてゐる。霊性的自由から出ないものは、個己中心となる。個己は、所謂る個人・家族・各種団体・国家などすべての上に見られる。個人の場合では、「我利我利亡者」となり、国家の場合では、行過ぎ国家主義、帝国主義的侵略外交などと云ふものになる。何れも根本自由の何たるかを知らぬからである。
「自由」とは、自らに在り、自らに由り、自らで行為し、自らで作ることである。さうしてこの「自」は自他などと云ふ対象的なものでなく、絶対独立の「自」――「天上天下唯我独尊」の、我であり、独であり、尊である――であることを忘れてはならぬ。これが自分の今まで歩んで来て、最後に到達した地点である。(「明治の精神と自由」『東洋と西洋』『全集』二十一巻、二一〇~一九頁)
五 西田における自由の思想
晩年の西田と親しい間柄にあった佐藤信衛は、「先生は明治時代の堂々たる自由の精神をよく理解しておられた」と書いているが、私はこのさりげない指摘に、西田哲学の重要な一側面が示されているように思う。……
「全体主義といふことはあの今日のいふ、云つてをるのは非常に概念があいまいだ。あいまいといつてもやつぱりその何んだね、その個人の創造を否定するといふ意味の全体主義だ。」
「全体主義といふのは何もかもその全体といふだけ。個人といふものを否定してゆく。否定してゆく、個人主義といふものが悪いとか。(中略)全体主義だけで創造が出来てゆくかといふことはないんだね。やつぱりそれはどうしてもローマならローマをみてもやつぱりその、全体主義になつたときにはやつぱりローマがそれからだんだん否定されてゆく。」
ここには、戦時体制下の全体主義によって圧殺されかけている個人的自由の重要さを強
調する悲痛な叫びがある。こうした叫びをかり立てる激しい「自由の精神」こそ、西田の
難解な「個体の論理」を支える感情的な基礎であったといえるかもしれない、と私は考え
ている。(上山春平「自由の精神――西田哲学の一側面」)
私は是に於て創造作用と人格との関係を明にして置きたいと思ふ。従来、人格と云ふことは、単に意識的なる抽象的個人的自己の立場からのみ考へられて居る。自己が自己から働くことが自由と考へられて居る。併し斯く云ふには、自己と云ふものが、何等かの意味に於て性質的に存在せなければならない。単に無規定的ならば、自己自身からとも云はれない。有るものは、何等かの性質を有つたものでなければならない。自己自身の本質から働くこと、自己自身の本質に従ふことが自由と考へられる。単なる恣意は自由ではない。然らば、その自己自身の本質とは、何か、我々の自己の本質は何処にあるのであるか。……
我々の自己の意志的存在、人格的自己と云ふのは、何処までも自己矛盾的存在でなければならない。我々の自己は、何処までも述語面的自己限定としての有である。自己に於て自己を限定する、自覚的である。何処までも理性的である。併し単に斯く考へられるかぎり、自己は意志的ではない、行為的ではない。我々の意志はとは、主語的なるものが、述語面を破つて、逆に述語面的に自己自身を限定する所にあるのである。単に主語となつて述語とならないものは、対象的個物である。かかる個物が述語面的に自己自身を限定すると考へられる時、即ち意識的に作用すると考へられる時、本能的である、欲求的である。併しその限り、それは自由ではない、意志的ではない。我々の自己は何処までも述語面的自己限定として主語的なるものを内に含むものでなければならない。而も述語面即主語面的に自己自身を限定する所に、即ち主語と述語との矛盾的自己同一的に、自己自身を限定する所に、真に自己自身を限定する唯一的個として、我々の人格的自己があるのである。我々の自己は意識的に作用する。併し我々の自己は単に意識の内にあるのでもない。無論単に外にあるのでもない。内と外との矛盾的自己同一的に、何処までも自己に於て世界を表現すると共に、世界の一焦点として自己自身を限定する所に、即ち創造的なる所に、自由なると共に内的に必然的なる、我々の人格的自己があるのである。絶対的無にして而も自己自身を限定する絶対矛盾的自己同一的世界に於てのみ、我々の人格的自己と云ふものが成立するのである。(「場所的論理と宗教的世界観」四〇一~二頁)
絶対現在の自己限定として我々の行動の一々が終末論的と云ふことは、臨済の所謂全体作用的と云ふことであり、逆にそれは仏法無用功処と云ふことであり、道は平常底と云ふことである。故に私の終末論的と云ふのは、キリスト教のそれと異なつて居る。対象的超越的の方向に考へられたものではなくして、絶対現在の自己限定として内在的超越の方向に考へられたものであるのである。我々の自己の底に、何物も有する所なく、何処までも無にして、逆対応的に絶対的一者に応ずるのである。我々の自己が何処までも自己自身の底に、個の尖端に於て、自己自身を越えて絶対的一者に応ずると云ふことは、そこに我々の自己がすべてを超越すると云ふことである。絶対現在の自己限定としての、此の歴史的世界を超越することである、未来過去を超越することである。そこに我々の自己は絶対自由である。そこに盤山宝積の如擲剣揮空である。ドストエーフスキイの求めた自由の立場も、かかる立場でなければならない。自己の底に自己を限定する何物もない。主語的に本能的なものもなければ、述語的に理性的なものもない。何処までも無基底的である。故に祇是平常無事、即ち平常底と云ふ。而して随処作主、立処皆真と云ふのである。此に何処までも西洋的なるものの極限に於てのカントの人格的自由と、東洋的なるものの深奥に於ての臨済の絶対自由との対照を見ることができる。到る所に、自己が絶対者の自己表現となるのである。我々はニーチェの人神ではなくして、神の人、何処までも主の僕となるのである。対象論理的に考へる人は、右の如き語を、単に自己が無になるとか、無差別的となるかと考へるでもあらう。併し自己が自己の底に自己を越えると云ふことは、単に自己が無となると云ふことではない。自己が世界の表現点となることである。真の個となることである。真の知識も道徳も、かかる立場から出て来るのである。そこから絶対者の自己否定の極限として人間の世界が出てくる、我々の自己は絶対的一者の自己否定的多として成立するのである。故に我々の自己は一者に逆対応である、「ひとへに親鸞一人の為なりけり」と云ふ、個なればなる程、斯く云ふことができる。而して此故に我々の自己は、逆対応的に一者に於て自己を有つと云ふことができるのである。絶対否定即肯定的に、かかる逆対応的立場に於て、何処までも無基底的に、我々の自己に平常底といふ立場がなければならない。而してそれが絶対現在そのものの自己限定の立場として、絶対自由の立場と云ふことができる。そこに、一々の点が、アルキメデスのプー・ストウとして、立処皆真と云ふことができるのである。我々の自己が個なれば個なる程、絶対自由的に、かかる平常底の立場に立つものでなければならない。本能的に外から支配せられるかぎり、我々の自己に自由はなく、理性的に内からといふ所にも我々の真の自由はないのである。此の私の云ふ所の自由は、西洋の近代文化に於ての自由の概念と対蹠的立場に立つものがあるのである。ユークリッド的なる所に、人間の自由があるのではない。絶対的否定から個が成立すると云ふ所に、私の場所的論理と神秘哲学とが、逆の立場に立つのである。私の哲学を神秘的と考へる人は、対象論理の立場から考へる故である。……(四四八~五〇頁)
六 自由から自主へ 大拙の社会観
……それで十九世紀以来の科学と技術の進歩で、人間社会の面目は加速度的に変化して行きつつ、またそれに引連れて精神的思想的方面にも少なからぬ転換を見るのである。
一、近代の吾等の考へ方はすべて物質的生活面に向つて動く。生活水準の向上といふは衣食住の面でいふことである。霊性面は閑却せられる。
二、機械は企画性に富む。それ故、吾等はまづ机の上で幾何学的、数学的、即ち抽象的に人事万般の動きを規定してかかる習癖を養ふことになつた。
三、線と面と点の数学で出来た世界には、流動は可能ではない。何もかも固定して居る。空間性だけがあつて時間性がない。即ち機械の世界には自主、自由自律、創造がない。日夕機械にふれて居るものは、またその特性に吸ひ込まれてしまふ。自主性を欠いた人間が出来る。誰か他から動かしてくれぬと動けない。隷従は機械の最も顕著な性格の一である。
四、機械は統制そのものである。既定の方向に、合目的的に、動くことの外に何物もない。人間性の一面にもこの統制を甘受して、自由意志を動かさず、選択の判断をしないことを喜ぶ面がある。これは特に集団生活の方向に著しく見られる。
五、集団生活の統制は人間を機械化することである。個人的なるものをすべて一色に塗り潰してしまふ。人間生活の形而下面に役立つ機械を真似た全体主義的画一性の政治は、一一の人間を機械の歯車化してしまふ。個人がそれぞれに持つて居る多様性は一斉に没却せられる。
六、画一は犠牲を要求する。既に何かの目的を立て、その完遂を期する場合には、個人的多様性ほど邪魔になるものはない。多様性の否定は、実際の人間生活面では、その人を殺してしまふといふ意味になる。単に思想的に又感情の上で、その人を去勢するといふことでなくて、その人の生命を文字通りに奪ふことである。革命に無用の殺傷は附きものである。 (大拙『青年に与ふ』より)
私利私欲の人でも自主的に考へることは可能であるが、彼は自らの主人公にはまだなつて居ない。彼はいつも自利的な物の見方をして居る。自利的に物を見ると云ふことは、本能的に自らに使はれて居ると云ふことである。自分の主人公となる人は、自分を使ふことの出来る人である。自分を社会の一員として、自分の思惟と行為は社会的に環境的に働きかかるもの、また働きかけて共同生活に意義を持たすべきものと考へる人は、自利的な考へ方をなさないのである。自利自愛の心に自ら限定を加へ得る人でないと、自ら主人公となつたとは云はれぬ。それ故、自主的に考へると云ふことには、単なる知性的分別上の意味だけでなく、社会的・道徳的意味を兼ね含んで居ると云はなくてはならぬ。
かうなると、自ら主人公となることは、他をしてまた他自らの主人公たらしめることでなくてはならぬ。これはどのやうな意味かと云ふに、自らを重んずるは他を重んずるものであると云ふことである。即ち自分が道徳的人格であることを自覚するものは、又能く他の道徳的人格たることを認むるものである。孔子は、「己立たんと欲して人を立つ」と云ふが、当時は如何なる意味に解せられたにしても、今日自分等の解釈によれば、「己立つ」は自家の道徳的人格を意識することである、さうしてこの意識は自家底のみで成立するものでなくて、まづ「人の立つ」ことが要請せられる。人が立てば己も自ら立つことになる。己だけを立てんとすると、遂には人を立たしめざることになるのである。事実、己だけが立ち得べき理由はないのである。孔子は又「己達せんと欲して人を達す」とも云ひ、又、「己に克ちて礼を復む」とも云ふ。何れも他の人格を尊重するの義に外ならぬのである。自主的の考へ方はこれでないと本当に成立しない。……
〈この一篇のくくり〉
一、自主的に見ることと考へることは、今日の日本人にとつて一大喫緊事である。政治的に経済的に民主主義といはれるが、その「民」の一人一人に自主的考へ方の持合せがないと、是も亦一種の日本的「全体主義的」なものになつて、何のわけもなく、民主民主と叫んで、その実はその逆の手を打つて居ることになるであらう。
二、自主的は利己的ではない。従つて他を陥れて私を営むことでない。自主的とは、物事を論理的に取扱ふことで、情感を入れることでない。人間の特異性は合理的といふところに在る。これを極度にまで働かさなくてはならぬ。これが働けば人間は自ら自主的になる。群集生活をするのが人間ではあるが、個的存在を保持して行くのも人間である。群集心理の傀儡となつてはならぬ。
三、自主的とは合理的であるといふことになると、これを集団組織体の上で考へると、八紘一宇などといつて、無闇に侵略的帝国主義を肯定することでないといふことにならう。自主的に国家を樹立するとは、他を排すること、圧すること、虐待すること、利用することではないのである。自ら主人公となるものは、亦能く他をして他自らの主人公たらしめるものでなくてはならぬ。個人の上でも、国家の上でもその通りである。自主性のあるところには、抑圧・横暴・侵略などいふものは、如何なる意味においてもあり得ない。
四、自主性は、各人の自由を是認し尊敬する。各個人は道徳的人格であるからである。他の自由を毀損して我意を主張せんとする人は、自らの道徳的人格をも無視する。
五、自主性は個人的自由主義と同意味である。これは全体主義の絶対性に対する対蹠的立場に在ることを認むるものである。併し自由と自主とは共に全体を否定しない。何となれば個と全、全と個とは重重無尽の法界における一連環だからである。一をのみ立てて他を排することは、法界の真相に徹しない見方である。
六、自主的に考へ自主的に行為する人は、その考へその行為に対して十分の責任を負ふことを忘れない。集団的組織の内に在つて、その秩序を紊すやうな行為は自主的ではない。併し当面の組織では、集団生活の文化的向上及び実際生活上の幸福が増進せぬとの結論に達したときは、それを革新することを憚らない。自主的・理論的闘争は寧ろ歓迎すべきであらう。これがまた自他を尊敬する所以である。
七、自主性は絶対服従の要請せられる政体の下では、それが如何なる形態を取るにしても、そこでは生長し発展しない。封建主義、忠君愛国主義、親心主義、承詔必謹的態度、限りなき御恵の感謝せられるところ、道徳的行為・政治的思索・経済的社会的施設などが垂直線的に天降りするところ、青人草の卑人根性が強調せられるところ、君は風、臣は草で、只吹かれるままに個性も道徳的人格も、捨てて顧みないところ――大体このやうな思想の流行する国民の間では、自主的考へ方は到底芽生えの機会を得ないものである。 (大拙『自主的に考へる』より)
結
効率主義・業績主義一辺倒の、競争社会となった、多くの問題をかかえる現代社会において、自己の存在の意義を深く自覚しつつ、自他のあるべき関係を創造していけるような主体の実現を、どのように展望していくかは、緊要の課題である。明治以来の近代化の中で、本質的な問題を考え続けた西田・大拙の思想に学ぶことは、きわめて大事なことであろう。 (了)続きを隠す<<